暮らし術

先日、集落の方がひとり、亡くなりました。

うちのすぐ近くの、Kさんちのおじいちゃんです。

3年前に体調を崩されたとのことで、以来すこししんどそうでした。それでも、つい先日まで、付近を歩いておられました。

穏やかで、優しい方でした。このあたりでは最長老のひとりだったと思います。
きっと集落の他のみなさんは“生まれた頃からずっと”レベルでともに暮らし続けてきたはずで、一方わたしは週末だけ畑や道端で「こんにちは」「暑いですね」と笑顔を交わす程度の間柄で、何かを語る分際ではないと思うのですけれど、いつも近くにいるはずの姿が、もうない、というのは、とてもさみしいものです。

この畑で、ご夫婦でいつも農作業をしておられました。

この畑で、ご夫婦でいつも農作業をしておられました。

だいぶ前になりますが。
田んぼに水をひく前に行う水路掃除の共同作業に、わたしが初めて参加した時のことです。

U字溝の泥を掻き出す作業はなかなか体力を使うもので、みんな持ち場についてせっせと作業に励んでいました。わたしは中では(これでも)もっとも若い方ですから、がんばってたくさん進めなきゃ!と気張っていました。
ですが、どう見ても鍬さばきがいちばんヘタっぴで、非力で、充分な働きができていないわけです。そりゃそうだよな。他の方の年季の入りようから考えれば「やってても見ててもいいよ、あんまり変わんないし」という程度の働きだったでしょう。溝の下に這っている太い根っこに鍬がつっかえては作業が止まり、脇から生えている笹や竹が邪魔で作業が止まり、そのたびに「ほれ、やってやっから」と助けてもらう始末です。自立して作業できない自分が歯がゆいったらありゃしない!

もっとがんばらなくっちゃ、どんどんやってどんどん終わらせなくちゃ、という気持ちで、きっとその時のわたしは必死の形相だったのだと思います。
ちょうどお隣りで作業をしていたKさんちのおじいちゃんが、ふう、と一息ついて、そんなわたしを見て「ぼちぼちな、ぼちぼち。ゆっくりやんねえと、くたびれるから」と、声をかけてくれました。
はい、ありがとうございます、と答えながらも(ゆっくりやったら終わらないから……)と、わたしは思っていました。早く片付けて、早く終わらせた方が、その後の時間が使えるじゃない?ゆっくりやったらどんどん時間が押してしまうよ、と。

隣りでペットボトルのお茶を美味しそうに飲んで、腰に手をやりながら遠くまで広がる田畑をずいいいっと見渡すおじいちゃん。里山の景色の中に溶け込んで輪郭がなくなってしまいそうなほど、のどかな空気をまとっていました。「また、田んぼに水を張る季節だなあ」と思っていたのかな。この作業、彼は何十回目になるのでしょうか。

わたしもつられてお茶をくい、くい、と飲みながら(ああそうか。早くやることが価値ではないのかも)と、何となく思えてきました。さっさと終わらせたい、という一念でタスクをこなすのではなく、季節の仕事を楽しむ余裕を持つということ。毎年、毎日の野良仕事は、その場限りがんばればいいというものではなく、明日も明後日もずうっと続くもので、そうした人生全体の中でよい生き心地が確保できるよう、力を入れたり抜いたりするんですね。

これは、すこし前の草刈り作業の時。

これは、すこし前の草刈り作業の時。お茶のんでますね。

最近、力仕事は難しくなっていたおじいちゃん。
それでも共同作業の日には鍬を持って集合場所に来ていました。集落の方々も「無理してやんないでいいよ!」ではなく、「じゃあ、こっちをお願いしますよ」と、できる範囲の作業についてもらうようにしていました。

昨年の晩秋、一緒に作業をしたのが最後だったと思います。

長時間、がんばっておられました。

長い時間、がんばっておられました。古い支柱を引き抜く作業は、それなりに力がいります。

そして、つい2ヶ月ほど前。

南房総市の地区会館でNPOの仕事を終え、家に帰ってくる途中のことでした。
うちのすぐ手前、田んぼをぐるりと巻き込むように続く細い道のところで、これまで見たことのない光景に出くわしました。

集落の中の細い道で、渋滞があったのです。

わたしたちの車の前に、数台。
まあ、見ませんね。海に出る道や高速のインターに続く県道などならたまに渋滞がありますけど、集落の中は春夏秋冬じつに穏やかです。たまに通る車のエンジン音で誰が来たのか分かるくらい。
なのにこの時は複数台数珠つなぎ。前のほうの車がクラクションを鳴らすでもなく、この車列はただじっと、ずーっと、GWの関越自動車道並みのスピードで進むのです。

……いやはや、どうしたのだろう?
しばらくしても渋滞解消の兆しが見えないのでさすがに不安になり、車を降りて前にまわりこむと、そこには、Kさんちのおじいちゃんが歩いている姿がありました。

ゆっくり、ゆっくり。
本当に、カメさんくらいのスピードで。
Kさんのお宅まではそこから歩いて3分とかからない距離ですが、彼の速度だと、だいぶかかりそうです。

今年に入って道端でお会いした時、つい前に比べて足取りがいよいよゆっくりになったなあ、と思ってはいましたが、この日はさらに、重力がたっぷりかかっているような足の運びでした。
そして、後ろに連なる車列には気がついていないようでした。

「ちょっとちょっと、道の真ん中を歩くと危ないよ!後ろにいる車が通れなくて困っているよ!脇によけてください」と言われたとしても、まあ仕方のない状況だったと思います。

でも、おじいちゃんの後ろにいる車たちは、だーれもそれをしませんでした。

むしろ、わたしが様子を見に行ったことで気を遣わせてしまったようで、車列の中にいた同じ集落の小出さんがおじいちゃんのもとへ寄り添い、道の脇のほうに歩く向きを調整すべく手を貸していました。

「そんな体で歩いたら危ないよ!」でも「車のっけてくよ!」でもなく、彼のスピードと歩く意志を尊重して、やわらかく見守る。大げさな優しさや過剰な心配のかわりに、高齢者はみんなと違う状態で歩くんだよ、ということを何度も受け入れてきた人たちの包容力が、そこにはありました。
きっと、今は亡きいろいろな方たちが、そうやって歩みが遅くなりながらも、この道を歩いていたのでしょう。

道に出れば、いつも見える風景。むこうの山は、笑っていました。

道に出れば、いつも見える風景。むこうの山は、笑っていました。

ほんの1ヶ月前には、おうちで寝ておられました。
Kさん宅に用事があって玄関から声をかけると、おばあちゃんと共に過ごしている気配がありました。
生涯過ごしてきた家で、鳥の声はもう聞こえないかもしれないけれど、春の風のとおる心地は感じられて、家族がいて、近所の馴染みがいて。

もう、ゆっくり歩く姿が見られないのは、とても悲しいです。

昨年夏、バーベキューをやっていたら、顔を出してくださいました。

昨年夏、うちでバーベキューをやっていたら、顔を出してくださいました。

たまに、ひとの幸せな一生って何だろう、と考えることがあります。
野良仕事をしながら、頭の中がヒマなときなんか、ね。

元気なときはいいのです。自分の思うようにどこかへ行き、したいことをし、つながりたい人とつながり、成長をし、責任を果たしていくだろうから。そのあたりの姿は想像に難くない。想像力がふつっと途絶えるのは、「幸せな最期でした」というところに至るあたり。

体がだいぶままならなくなったとき、人生をどんな時間で満たしていくのか。
誰と、どこで、どんな風を感じて過ごすのか。

人生のフィナーレが満たされたものであることを目指すだなんて、ちょっと先々を考えすぎかしらとも思います。でもその視点にたつと、今、どんなに忙しくてもどんなに外的刺激の中を生きていても、ほんとうに大事なことはそれほどないかもしれない、と思えてきます。いや、過程は全部大事でしょう。でも、そぎ落とされて残っていくものは、そんなに多くない気がします。

わたしも、我が家へつづく道をゆっくりと歩くことが、許されるようなフィナーレになればいいなあ、と思います。

今年も、田んぼが美しい季節になりました。

田んぼが美しい季節になりました。変わらず、今年も。

そうそう。
Kさんちのおばあちゃんとは、今も変わらず畑でお会いします。
「こないだショウガを植えたからね。できたらまた持っていきますね。こうやって最初に伝えとくと、がんばろうって気がするから、言っちゃうの」と笑っておられました。
とても楽しみです。

 

※本記事は、馬場未織氏の知識と経験にもとづくもので、わかりやすく丁寧なご説明を心がけておりますが、内容について東急リゾートが保証するものではございません。
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