まったく、この調子じゃアッという間におばあさんになっちまう!
こないだ年をまたいだというのに、あと3ヶ月で来年ですって?ふざけた話です。1年の過ぎるスピードが年々早まっている気がします。というようなことを義母にぼやいたところ、「あなたね、78歳にそれを言うの。こっちはこのままいくとどうなるか恐ろしい早さよ」と言われました。いろいろ返答に困って冷や汗。
傍で会話を聞いていた下の娘のマメも、「わたしだって保育園のときより小学校の方が早いよ」とのこと。
わはは。生まれてたった7年でも、そうなのか。
「だってさ、こないだ夏休み終わったのにもうすぐクリスマスだもん」。
え?もう心はそこ?
いいよねえ、明らかにベクトルが上向きで。
ぴゅーっと過ぎ去る日々の先にあるのは、もっとわくわくする未来で、もっと大きくなっている自分なのですから。
日々変化するこどもたちのお尻を追いかけて、息を切らすように過ごす。
こんな毎日の繰り返しでやってきて、気がつけば、我が家から‘幼児’が消えていました。
東京に住む私たち家族が「田舎にも住もう!」と決めたのは第一話で話したとおりで、息子の生きもの好きがきっかけですが、南房総に家を買った2007年1月当時はまだ保育園児だった息子のニイニは、今では家族でいちばん大きい図体の中3男子になってしまいました。
南房総の家の近くには、「平久里川」という小さな川が流れています。家から川まで歩いて10分程度。鬱蒼とした竹林の中を通り、ぬかるみに気を付けながら下っていくと、人の気配のない静かなせせらぎが、ふいに現れます。護岸工事のされていない、昔ながらの小川です。
当時、生粋の虫オタク魚オタク石オタクだった彼にとって、そこは、飽くなき探求心を傾ける宇宙そのものでした。
網とバケツを持てばもう他のことはいっさい忘れ、全身全霊で水面下の世界に集中。自分が棲むことのできない水の中の世界をできるだけ引き寄せようとしていたのか、川底をガサガサやって生きものを捕まえては、観察し、図鑑で調べて、絵に描いて、の繰り返し。川底の地形、どこに何が棲んでいるのか、季節によってどんな顔ぶれと会えるのかなど知り尽くしてもなお通いつめていました。
「ライフジャケットは?絶対着ろって言ったよね!」と声をかけると面倒臭そうに身に着け、「その靴で入ったら学校に履いてくものがなくなるでしょう!」と怒っても馬耳東風。ありったけの時間を生きものと対話するのが、彼の週末のデフォルトでした。
そんなニイニと付き合っていると、逆に親の方が、感化されていくわけです。
世の中、「人付き合い」ばっかりでできているようだけれど、人間が、人間以外と付き合う時間がもっとあってもいいんじゃないの?と、思っちゃうような。
シマドジョウ、ホトケドジョウ、スジエビ、ヤマトヌマエビ、ウグイ、ヨシノボリ、ギバチ、ヤゴ、サワガニ、モクズガニ、オタマジャクシ…
わたしは、生まれてからずっと都市生活を送っていましたから、生きものを追いかけて過ごす子供時代はありませんでした。近所に「うさぎ追いしかの山」や「小鮒釣りしかの川」があったら違ってたと思うんですけどね。あいにくマンションの前庭くらいしかなかったもので。
手元ではこそこそと、カタツムリやダンゴムシを集めて飼ったり、理科で蚕の繭玉を茹でて糸をとるのがかわいそうで羽化まで育てたり、生物の遺伝子の授業で気絶させたショウジョウバエの目ん玉の色を赤と白に分けて数えたあと、情が移って数十匹持って帰ったりしてましたから。←その後どうしたっけ……汗。
まあ、生きものに向かう興味は、自分でもとりたてて大事にしてこなかったというかんじです。
ところが、自分の子どもには、どっぷり自然に浸かる環境を与えたわけです。
もちろんニイニは好奇心の羽を思いっきり広げて興味の赴くままに飛び回りました。その様子を保護者然として見守り、「ああここにきてよかったな」とじんわりしていたわたしですが、次第に、ニイニだけが網を持っているといろいろもどかしいなと思うようになり、「ちょっとママにも貸して」と再三言うのもまどろっこしくなり、自分用の網を持ち、野山でも川でも一緒になって生きものを追いかけ始めました。
「見て!ハンミョウ!めっちゃきれいだよすごいよ!」
「ほらあそこにハグロトンボ…羽がみどりに光ってる…そーっと行けそーっと」
「きてきてきてきてきてきて!!イモリみっけた!ちょーかわいいんだけど!」
いちいち騒ぐな。自分。
でも楽しくて仕方なくて、興奮が抑えられません。あんたの網づかいはなってないよ、いーからママがやるから見てなさい!だなんて言っちゃって、だいぶウザい。むしろニイニの方が採集や発見に慣れているから落ち着いているくらいです。
もし、いい歳した女が一人で網持って興奮してたら、やや不気味かもしれません。というか、まずそんなことしないでしょう。年相応にふるまうことで、無意識に閉じてしまう回路があるんだと思います。
それが、「こどものため」という都合のいい理由を入口に、自分の好奇心がぶわっっっと開いてしまった。30もとうに過ぎてから。
畑を耕していてカエルがぴょんと跳ねたら、鍬を放り出して追いかけます。
あっちではバッタがぴょん。こっちではカマキリがくわっと鎌をもたげてる。
土を掘ればいろんな虫の幼虫がだるそうに身をよじり、ミミズがくねり、大きな石の下からはべったり張り付いた無数のアリと卵が地殻変動のように動き出します。
それらがいちいち面白くて、「おいでー!!すごいよーー!!」とこどもたちを呼び寄せる母親を、いつからかニイニは呆れ顔で見るようになっていきました。はいはい知ってるよ、進歩しねーな、みたいな。
(で、この感動をいろんな家族と共有したくて、親子参加の『里山学校』という自然教室をひらくことになったわけですが、その話はまたこんど。)
実際、歳とることで敏感になる感性があるんじゃないかと思います。自然の機微に目を奪われ、感動して立ち尽くしていると、まったく共感していないケロッとした顔で「ママ暗い顔してどうしたの?」と言ってきたりするし。
あるいは、博物学的な興味からどんどん世界を広げていくニイニと、プリミティブなレベルで興奮するわたしとは、同じものを見ても感じ方が違うのかもしれません。
そうしていつも網を持ち、カゴを持ち、里山を駆け回る日々がずっと続くと思いきや。
小学生終了と同時に、ぱっきりとピリオドを打ちました。
びっくりです。そんなに急に変わっちゃうと、こっちはついていけないよ。
今では腹筋がシックスパックの水泳部員です。
9年前のわたしは、息子がやがて虫や魚ではないものを追いかけるようになり、自分の世界を持って自立していく時が来ることなど、これっぽっちも想像していませんでした。
毎日必死に子育てしていると6~7年後なんていうほんのちょっと先の未来にも想像が及ばないものです。特に第一子については、一寸先は未知。
こどもはいつまでも、こどもじゃない。そんな当たり前のことなのにね。
よく、「こどもたちが大きくなったら、馬場さんの暮らし方はどう変わりますか?」と聞かれますが、どうなんでしょう。やっぱりちゃんと想像できないんですが、いずれは夫婦だけになるでしょうね。あるいは友人らと、あるいはこどもたちがつくった家族や、その友人らと。集落や地域の人たちとも、長い付き合いにもなっているでしょう。
自然の中にいると、そんな自分の人生のサイクルも、他のすべての生きものの世代交代の一部にしか思えない気もします。
そう。
いつの間にか、わたしは「親」ではなく、ひとりの人間として、この暮らしを謳歌することを考えるようになっている気がします。
おかしいですね。押しつけがましく「こどものため」とか思ってたくせに、それが「依存」にならないように、なんて考えるなんてね。
現在のうすらデカいニイニは、部活が終わると高速バスに乗って後から南房総に来て、ロードバイクで館山の海岸沿いを走り回ったり、近所の大工さん(わたしと同世代)とサーファー仲間になり、日の出前に軽トラでピックアップしてもらって波乗りをして過ごしています。モテそうなことだけしちゃって、とからかうと、「サーフィン舐めんな。海舐めんな。人からどう思われるとかどーでもいいんだよ!」と食ってかかります。はいはい。
しかし、うまいこと興味をずらしてきたもんだ。
自然との付き合い方にも、いろんな形がありますからね。
さて、娘たちはどうやって大きくなるだろう。
2007年の冬には2歳だった娘のポチン(昔は背がちっちゃくて目鼻立ちがポチンとしていましたので)は小学5年生。メタモルフォーゼ直前の女の子独特の、アンバランスな匂いを放っています。南房総では畑の手伝いよりも収穫したものの料理づくりを好み、セミの声に耳をすませたいわたしの前でじゃんじゃか洋楽をかけて口ずさむトンがった女子です。
そして、週末田舎暮らしが始まった後に「え!このタイミングで3人目!」とサプライズで生まれたマメ(妊娠中のエコー写真の赤ちゃんがマメみたいだったもので)も小学1年生。ニイニの生まれ変わりのように生きものが好きで、蝶やタカラガイといった美しい生きものをこよなく愛し、釣りに行くと「かわい~~」と餌のアオイソメを手に乗せる変人です。
今はかわいくてもどーせ、こどもはみんな、いつかは出ていっちゃう。
だからこそ、子育ての時代って本当に大事。と、わたしはしみじみ考えています。
大きくなって、親元から離れ、南房総の暮らしから離れる時が来ても、その後の彼らの人生でこの暮らしの記憶が何らかの判断の源となったり、何らかのスイッチが入るきっかけとなってくれたらいい。万に一つでもね。
……こうして書いていたら、ずいぶんおばあさんな気持ちになってしまいました。
まだあと10年くらい子育てが残ってたわ。先は長い。
今日も「お腹空いた!おやつ!」とうるさく帰ってきて、寄ると触るとケンカをし、寝るまで騒々しいこどもたちをあしらって生きていかにゃなりません。目の前にいない時のこどもはいつも涙が出るほど愛しく思えて、目の前にいる時のこどもはうるさくて厄介極まりない。そんなもんでしょか。
ではまた、次回!