食事ができると、いつもは「お食事よ~」と家族に声をかけるわたし。
でもこの時期は、炊飯器をのぞき込みながら思わず「ごはんよ~」と言います。
ごはんよ~、ごはんが美味しいごはんよ~。
新米の秋は、毎回の食卓がいつもよりちょっと幸せです。
今、我が家で食べているお米は、「ほんまる農園」でつくられた減農薬の新米です。
生産者の本間秀和さんは、我が家と同じ三芳地区の農家さん。米・食味分析鑑定コンクールで高得点を出すお米です。肥料はレンゲ緑肥と南房総産海藻肥料で、化学肥料を使わずによい味を出すのは大変だと伺ったことがあります。
今年は8月に厳しい日照りがあり、その後の長雨でなかなか収穫できなくてずいぶんやきもきしました、とのこと。収穫しそこねた稲が長雨に打たれ、稲穂が地面についたところから発芽してしまったり、カビてしまったりという憂き目に遭った農家さんもいるとか。
だから今年のお米は、例年よりもありがたく思えます。
炊きあがって炊飯器を開けると、「ぷちぷちぷちぷちぷち……」とご飯粒から水蒸気の上がる音がします。この音がいい!粒の立ったツヤッツヤのごはんにおしゃもじを入れた時の、シャクッとした感覚もたまりません。
ひとくち食べると、こどもたちですら「うわあ、お米の味が濃い!」と声が出ちゃう。ごはんなんていう淡泊なものにも、こんなに美味しさの違いがあるってことがすごいですよね。噛むと上質なナッツのようなまろやかな風味が鼻をとおり、ひたすら、よく噛んで味わいたくなるのだから。
秋ならではの、幸せですね。
こういうのが日々の中にちょいちょいあると、救われるんだよなあ。毎日超ハッピーでルンルンという人ならいいですが、わたしのもっさりした日常には、しんどいことや腹の立つこと、げんなりすることがわりとありますから、どこかでバランスしなきゃならない。
たとえば今朝のわたしはルンルンだった?
…否。
学校の用意の遅いマメのことを「早くしなさい!」と怖い顔で急かし、トイレから出ないマメにいらいらしているニイニには「そんなに急き立てたら出るもんも出なくなるでしょう!」とどやし、脱ぎ散らかしているポチンには「もうパジャマは捨てます!」と凄み、トゲトゲとイガグリのような母になり果てておりました。
トゲの原因はこどもたちだけにあるとは限りません。頭の片隅には積み残しの仕事のことがあり、それが心のトゲ化を促進させたりしているんですよね。そうなるとイガグリどころかフグです。あたしを持ったら刺すよ、食べたら死ぬよ、という毒女状態。
でも、新米のごはんがあると、「やっぱりおいしーね!」ともぐもぐ食べている時だけはちょっと穏やかな気持ちになります。友達の農家さんが丹精込めてつくったものを味わうだけで、満たされた気分になるから不思議です。
多忙な平日はそんなかんじでぼちぼちしのいでいくわけですが、週末に南房総で過ごしている時間には、小さな幸せがわりとそこかしこにあって、それで心をリカバリーしているというところが大いにあります。まあ、だから、9年も週末田舎暮らしが続いているんでしょうね。
といってもべつに特段、何があるわけではありません。わたしにとっての小さな幸せ、いや「小さくても大きな幸せ」は、生きものたちと出会うささやかな時間くらいですから。
…ああ、また生きものフェチの話か、というかんじですよね。すみませんね!わたしのツボは一般的ではないらしく、共感者があんまりいなくてたまに寂しくなるんだけど、まあいいや。
東京とは違って身のまわりにいろーんな生きものがいて、野良でふいに彼らと出会えるというのは、誰がなんと言おうととても幸せなことなのです。そうだな、わたしにとっては駅でふいに昔片思いだった先輩と会えるより幸せなんです。
(いや…カエルよりは先輩かな。でも、野ウサギは先輩より上だな。
というかわたし女子校育ちだからそもそもそういう先輩がいないんですよね……都市に野ウサギがいないくらい男子がいなかった。)
こないだは草刈りをしていたら、まずはクソガエル(と、このへんの人はいいますが、ツチガエルのこと)がヘコ、ヘコ、と草むらから跳んで出てきました。バッタくらいだといっぱいいるのでいちいち手を止めませんが、カエルだとけっこうな頻度で一度草刈り機を置いてしまうわたし。とりあえずさくっと捕まえて、かわいいなあ、と愛でてから放してやります。残念ながらわたしの幸せは、カエルの幸せにあらず。
その直後、同じくらいの大きさで、同じような色の小さいヤツが、もそもそもそっと出てきたんです。クソガエルかなと思ったけどなんか違う。ん?と思って目で追うと、毛が生えているっぽいんですよね。
「哺乳類だ!」
哺乳類を見つけると虫や爬虫類よりワンランク上の喜びがあり、一気にテンションが上がります。そぉっと近づいてみると、真っ黒の小さな瞳がきょろんとこっちを見てる!
「野ネズミだぁ…」
小さいころ家でハムスターを飼っていたのですが、まさにそんな風情です。家の中では、よく鴨居の上をちょろちょろっと走る姿を見たり、死んで干からびたりしていますが、野にいる野ネズミの、なとまあかわいらしいことよ!数年前のわたしだったら捕まえて飼おうとしたでしょうが、ちょっとオトナになったので、おさわりなしの観察だけにしました。(あいにくスマホを持っておらず、写真はなし。)
いちいち生きものを手前に引き寄せてしまうのは、わたしの悪しき癖。たとえば以前、見たことのない無毛の珍奇な動物がよろよろ歩いていたのを発見して、これは小さいシカ?小さいブタ?あるいは大きすぎるネズミ?と大騒ぎをし、しかも簡単につかまえられたので「シカブタネズミ」と呼んで観察したことがあるのです。
後で調べてみたらなんと、疥癬(ダニに起因する皮膚病)のタヌキだったことが発覚!おとなしかったのは衰弱しているからでした。さらに、疥癬は人間にもうつる、という記述もあり、血の気が引きました。結果的には何日経ってもわたしに疥癬の症状は出ず、幸いなことにセーフでしたが、野生とは適切な距離を持って付き合うべきだということを身をもって知った次第。やれやれ。
……そんな調子ではありますが、南房総ではそのへんにいるだけで幸せなことにちょいちょい出会えるワケです。これが、効くんだな。日常の仕事などで大きなストレスを抱えている時ならなおのこと、それらの深刻さを相対視するだけの精神的ゆとりが回復する効果を実感します。
そういえば、たまにある ‘週末東京暮らし’の時などは、ああ野良仕事なくて楽ちんだな~なんて思っちゃったりするのですが、用事のない日は何をしているかというと、なんとなく街に出て、なんとなく買い物などして、なんとなく1日が終わります。ちょっといい食材、ちょっと必要な季節の服、ちょっと素敵なお菓子など買うのはそこそこ楽しいし、ある程度心が満たされて、「東京も悪くないよな」と思ったり。
でも、野で野ネズミと目が合う時に感じるような幸せとは、やっぱりなんとなく質が違います。
この幸せの質の違いってなんだろうなと思っていた矢先、 ‘世界一貧しい大統領’として有名なウルグアイのホセ・ムヒカ大統領が『Mr.サンデー』というテレビ番組の中で、こんな話をしていました。
“(今の日本は)産業社会に振り回されていると思うよ
すごい進歩を遂げた国だとは思う
だけど本当に日本人が幸せなのかは疑問なんだ
幸せとは、物を買うことと勘違いしているからだよ
幸せは、人間のように命あるものからしかもらえないんだ
物は幸せにしてくれない
幸せにしてくれるのは生き物なんだ”
わたしには、彼のこの言葉が、深く腑に落ちました。
都市的な価値観だけがすべてじゃないこと。
むしろ右向いても左向いても人間しかいない世界の中だけでの閉じた価値観は纏足のように窮屈だということ。
その理屈が世界を支配していることに息苦しさを感じたら、縄抜けして外の世界に出てみることだって、できるということ。
東京と田舎を往復する週末田舎暮らしでは、それをことさら強く実感するのです。
命に満たされた風景や経験からもらっている幸せの先には、自由があります。
日々のストレスは、外部から降ってくるものと思っていたけれど、結局自分で自分をぐるぐる巻きにしているからだと気付くところに、立てる自由です。
「ここはただの、なーんもねぇ田舎だっぺ?」と地元の人は言います。確かに、南房総の暮らしには、特別な何があるわけではありません。
でも、虫や鳥や木々の葉っぱのこすれだけでできている音を聞き、「フィトンチッド※って本当にあるんだな」と自覚できるくらいよい匂いの空気を吸い、そんな匂いの風に頬をなでられていることで、平日ため込んだ毒素がしゅるしゅると抜けていきます。毎週こういう時間を持つことで、ひょっとしたらちょっとはいい人になれているのかな?なんて思うのですが。(こどもたちには全力で否定されそう。)
でももし、50年後くらいのわたしの死に顔が穏やかでいいものだったら、週末田舎暮らしが長かったからねえ、と思ってやってください。