夕方6時をまわったころ、「あれ?この時間ってこんなに暗い?」と思うようになりました。
セミの声も、聴かなくなりました。
雨を重ねるごとにちょっぴりずつ涼しくなり、薄手の長袖を携えて外出することが増え、食欲も増え、秋ですね。
美しい黄金色ですが、毎年と様子がずいぶん違います。
「これは、きびしそうだなあ……」
今年は、稲穂がくたっと倒伏してしまっている田んぼがあちらこちらで見られます。台風の影響でしょうか。バインダーで刈り取れなくなってしまったり、穂先が田んぼの水に浸かってかびてしまったりと、農家さんにとっては胃の痛い状態でしょう。
去年だって、秋の長雨がひかずに刈り入れ時期が伸びてしまった、それに品質がどうしても落ちてしまうんだよねと、苦労話をたくさん耳にしました。
フツーに食べているお米が、農家さんたちのどれだけの苦労やヒヤヒヤや祈りのつまったものになっているかを考えると、毎食の「いただきます」という声を直接、農家さんに届けたくなりますね。
ところで、わたしが冷蔵庫がわりに使っている近所の道の駅「土のめぐみ館」では、9月上旬から新米フェアをしています。
普段からお米は売られていますが、売り時ですから気合が入ります。とにかくすごく美味しいんだということを強調した文言であったり、自分のこどものかわいらしい顔の写真が貼ってあったり(ほのぼの家族でがんばっていますということか、小さい子を育てている家庭なのでぜひ買ってください!ということか笑)、なかなか親密なアピールが多くて地元感満載です。
我が家の毎月のお米の消費量は、だいたい20~25キロ程度。5キロずつ5軒の農家さんのものを食べ比べることができるから、けっこう真剣に選びます。
そうやってお米に血眼になっていると、脇からシャツをひっぱる小さい手が伸びてきます。
「ママ、ママってばママ。今日はつくってよ。絶対」
「……わかったわよ」(めんどくさ)
夕方になり、わたしの方がすっかり忘れていると、ヤツはぜんぜん忘れていなくてまたしつこくまとわりついてきます。
「ママ、ママってば。今日つくるんだよね?約束したもんね?」
「あー。ごめんごめん、今夜は違うもの用意しちゃった」(忘れてくれ)
「え~わかったって言ったじゃん、約束したじゃん。つくらなかったら約束やぶり。約束やぶったらディズニーランド連れてって。それがイヤならつくって」
もう、この件になると本当にしつこい!
わたしがめんどくさがってずるずる後回しにするのを何度も見ているからでしょうか、食い下がって離れません。とんだタフネゴシエーターです。
というのも末娘のマメは、毎年、毎年、楽しみにしているものがあるわけで。
今年はクリの当たり年。
うちのクリ、隔年でよく実をつけてくれて、我が家のえらい果樹ナンバー3に入ります。ちなみにナンバー1は隔年で豊作になるみかん、ナンバー2は隔年で豊作になるビワです。
クリは誰が食べても美味しいらしく、ハクビシンだのウサギだの、断りなしに我が家に移住・定住している動物たちがどんどこ食べてしまうんですが、人間にも分け前が残っていました。
特に、朝が拾い時。
ぷっくり熟して落ちた実が、けっこうな範囲から見つかります。
これが嬉しいんだな!おお、こんなにデカいのにまだやられてないぞ、ほら早く拾わないと、とまわりに誰もいないのになぜか焦る人間。
道に落ちているたくさんの食べカスを見ていると、よーし獲られる前に獲ってやれ!という気分になります。「ママ……これもう獲っちゃえるんじゃない?」とまだ木から落ちていないイガグリを指さす娘にほいほい従って、無理にもぎ取ってみたら、青白いしおしおの実が入っていました~。すみません。
熟して落ちて、クリ坊が弾け飛んだものが、食べ時なのよね。
それにしても、栗拾いは楽しいです。
なんですけどね。
そこから、娘の大好物の“栗ごはん”をつくる作業は、わたしはぜんぜん好きではありません。
動物たちは本当にきれいに鬼皮の中をたいらげていて感心しますが、人間はナマでがりがりかじって食べられないので剥かにゃならん。これが憂鬱。熱湯に漬けて剥きやすくしたところで、やっぱり硬いに変わりない。
『家族が喜ぶ顔が見たい<剥きたくない』というのが正直なところです。
グレープフルーツや八朔の薄皮を剥くのも、銀杏を剥くのも、イカの皮を剥くのもそんなに嫌いじゃないんだけど。栗は、別格に面倒。
なんですけどね。
ぶつぶつ文句言いながらがんばりました。えらいぞ自分。
ほっくり炊けた栗ごはんに、ぱらっとごま塩を振り、食べたらやっぱり美味しい。
やってよかったわ!笑。
「いい味~。うまく炊けてるね!」と家族に褒められて、うふふと静かに笑えばいいものを「そりゃママがんばったもん。すんごく手が痛いんだよ、めんどうくさいんだよ、でもみんなのために最後まで剥いたもん。それをよく考えて食べてね。今季最初で最後だからね。おかわりは栗の数を数えて、ごはんに対してバランスよく。あーだこーだ」と、言わなきゃきっと伝わらないだろうと思うことをいろいろ言ってしまいました。
ちょっと料理に手間がかかっただけで恩着せがましく言いたいわたしは、農家さんの爪の垢でも煎じて飲むべきだろうと思います。
食事って、食べちゃえば本当に一瞬。けれども、それが食卓に運ばれてくるまでに、あらゆるプロセスにあらゆる人の手間がかかっていて。もう全部全部めんどくさいからこうなっちゃうのもアリか?!ということだと思うんですけど、小さな頃に「未来の食事は錠剤でとる」というサザエさんの4コマ漫画を読んだのを覚えています。
そんな未来なら、今の方が幸せだなあ、と幼いながら思ったことも、覚えています。
究極の合理化は、幸せを奪うということですね。
あらゆるめんどくささを孕んだ、生きる喜びが、食事なんだなあと、今も改めて思います。
いやだから、どうも単純に怒る気になれません。
こういうサイテーなことになっても。
うちの裏山に住むイノシシ一家。今回はずいぶん派手にやってくれました。
全部隙間なくほじくり返してくれていたので、一見、どなたかが耕してくださったかのように見える。ぜんぜん草が生えていなんだもの!一瞬嬉しい。
近くに寄れば、畑から土手まで、全部ぐっしゃぐしゃのぼっこぼこです。
もうね、慣れていますけどね。
イノシシ被害歴、6年くらいになりますから。
最近はとくに頻繁に、彼らと出会います。大抵は夜、親1+子2~3くらいのまとまりで行動しています。
車のヘッドライトで照らされると(特に慌てた様子もなく)すこし足を速め、自分で決めているらしい裏山の入り口のところからしゅっと入ります。毎日毎日出入りしているのか、そのイノシシアクセス道だけはきれいに草が生えておらず、塩梅よく踏み固められている次第。
敷地内の被害はそんなわけで甚大で、ただでさえいろいろ野良仕事があるのに、修復やら整地やら膨大な手間がかかります。「こんなことまでして、何が欲しいんだ!」とぶつぶつ言いながら、またやられると分かっていながら、崩れた土手の土を戻す人間たち。
畑もさんざんな状態ですから、ため息のひとつじゃ済みませんよね。
ただ、まあ、イノシシも必死なんだろうなと、思わなくもありません。まとまって食べ物が手に入る里に出てきて、「ほらここでちゃんと食べなさい」とウリ坊と一緒にブヒブヒほじくり返して育てているんでしょう。当然っちゃ当然。
イノシシ親子のことまで思いやる心のゆとりは正直それほどないんですが、食べさせて育てる、という意味では人間もイノシシも必死さは一緒。イノシシに罪があるようで、ないわけです。「被害を憎んでイノシシを憎まず」というところ。
よく地元の方たちと話していると、みなさんも大抵そんなようなことを言っています。
「まあ、イノシシも人間もお互い必死だべ」と笑って、嘆いて、気を取り直して、防獣柵の張り方を検討します。
“共存”のマインドって、こういうことなんだなあと思います。
食べるために働き、食べるために闘い、食べるために守る。
サザエさんのような錠剤食の未来は多分来なくて、今もこれからもわたしたちは、そうして苦労しながら喜びながら食べていくんでしょう。だから、「食べる」ことにまつわるいろんな出来事が生々しくおこる田舎暮らしは、虚しさからとびっきり遠く、生きていくというシンプルな行為だけで心が満ち足りるのかもしれません。