ぼーーーー。
年明けから一瞬で2月になり、久々にぼんやりする時間を持てたのが先週末。
いやー。
ぼんやりするっていいですねー。
まだ草ものびてないし、おかげさまでイノシシも入ってきてないし、畑ものどかだし、不良債権のような原稿はないし、直近にざらついた案件がないって本当に幸せなことです。
みなさん、毎日忙しくしてますか?
いや、忙しいってなんなんでしょうね。
よく考えてみたら、わたしが忙しさにストレスを感じる時って、本当に寸暇を惜しんで仕事をしている時ではないんですよね。むしろ、やるべきことができていない時。
はじめなければならない原稿に着手していなかったり、まとめなければならない資料に着手していなかったり、どこかにあるはずの資料を探していなかったり、するべき連絡を先延ばしにしていたりして、見通しが立たない「もやっ」とした部分がある時です。この「もやっ」が心の余裕を奪い、暮らしのベースに不機嫌な超音波を流し続けます。
だったらさっさとやれー!というところですが、過積載の車がどうにか荷崩れを起こさないで走り切っていくような日々だと、なかなかそうもいかない。振り返って「いやぁよく無事に完走したなぁ」と自分に感心したりね。ろくでもないね。笑。
わたしの場合、“週末は南房総で過ごす”というリズムがひとつのガイドラインになっています。ともかく、週末をからっぽにしておけるように、「もやっ」の案件をなるべく週またぎで持ち越さないようにしています。だって、体があけられたとしても、心が「もやっ」に占拠されていたらせっかく南房総にいても何も入ってこないんだもの。
見上げた空が青いと感じられたり、フキノトウが美味しそうに目に飛び込んできたり、遠くの富士山に思いを馳せたりするのは、それを感受する心の余白があってこそ。
ま、そうもいかない時もありますけどね。
そんな時は野良に出て、何かやる。野良にはやろうと思えばいくらでも仕事がありますから、それをやることで「もやっ」を強制終了させてしまうんです。そうすると、だいたい帰る頃には、日々の懸案事項に向き合う気力が出てきます。
しかしこの日のわたしは本当に、なんてことなく、時間を過ごしていたな。
強いてやったことといえば、野積みしていた竹や木の枝を燃やして暖をとることと、足元をぼーっと見るくらい。
畑にしゃがみこんで地面を見るのは、楽しいものです。
立って見ていると分かりませんが、しゃがみこんでのぞきこむと、ちいさいヤツが地味にいろいろ動いているのが分かります。たとえばこの、啓蟄前からのそのそしているヤツ。
ナナホシテントウは寒さに強いらしくて、まだ2月の頭なのにわりとたくさん見られます。
手の上に乗せると必ず指先にむかって歩いていき、指先までくるとぶーんとお天道様に向かって飛んでいくのが面白くて何度もやってしまいましたが、その挙動がちょっと恍惚の人っぽく見えたのか、「……ママ大丈夫?」と娘が声をかけてきました。笑。大丈夫だし。
すごく小さい子ってよく、地面をいじってますよね。木の枝とかでかき回したり、何かを潰したり、ほじくったり。飽きもせずに長々と。
あの気持ちがわかる。本当によくわかる。
オトナが地面をじっと見るのはコンタクトレンズを落とした時くらいですが、こどもが低い視点から見ると、地面にはさまざまなドラマがあるんだと思います。
先日、里山学校のリーダーの本間先生が小さな男の子に付き合ってカエルを探していた時、「カエルみあたらないねえ……でもほら」と、草をかき分けて小さな生きものを凝視していて、わたしはその本間さんを凝視してしまいました。あまりにも楽しそうで。(男の子よりも楽しそうだった。)
今ある環境を深く深く知りたいと思い、ただ向き合い、観察し、感動し、そこから未来を考えることって大事だなあと、改めて思うところです。人間ばかりで集まって暮らしていると、今ある環境を知った気になって、もうつまらない、足らない、刺激をつくる!という動きになることがほどんどだから。
テントウムシを見ていると、ここで生まれて、たくさんのアブラムシを食べて、自分の身が自分で守れなくなるまで生きたら死んで土に戻るだけのこいつにはきっと、「もやっ」とした部分などないんだろうなあと思います。ちょっとうらやましい。笑。楽しいこともなさそうだけど、自分で自分を殺めるような苦しみも持ちようがない。
でもそもそも、人だってこの畑にいる虫たちと同じように、生まれて食べて出して死ぬ、が基本。その中で、種の保存が行われれば、とりあえず目的達成ですよね。
そのわりにはずいぶん余分なことをしてるなあ、と、思わず思っちゃいます。死んだらきれいさっぱり大地に戻るという人間以外の生きものとは違って、大地にまったく戻しきれず「結局これってどうなんの?」と不明な残置物をつくり散らかしているわけですからね。文明人は野蛮人を嗤いますが、実はどっちがホントに野蛮かねというのも、思わず思っちゃうこと。
もちろん文明のお蔭さまで快適に暮らせているし、長生きもできるようになったし、お腹抱えて笑ったり知的興奮があったり、幸せや絶望を実感したりと豊かな感情生活が送れているのはすごいことなんですけどね。
以前テレビで、文明社会と接触したことのない「イゾラド」というアマゾン川奥地の先住民族のドキュメンタリーを見たことがありました。その中で、取材者が彼らに“あなたたちは幸せか”という質問を発したところ、“幸せはわからない”という答えが返ってきたのを見て、わたしは衝撃を受けました。幸せは、わからない。確かに彼らには笑顔がありませんでした。“ともだち”と“敵”しかなく、その中で命を守るためだけに生きる時、幸せという概念はなくなるのだなと。
だから、ぼーっと畑を見ながらどうということのない時間を味わえるわたしは、文明のおかげで幸せなのだと、一方では思います。
じゃ、どこまでが「文明ありがたいありがたい」で、どこまでが「文明むしろ地球壊してるし」なのか。
どこに、持続可能な社会をつくる「文明」があるのか。
あるいは、持続可能な社会をつくるに至るほど人間は賢くないのか?笑。
そのあたりを、ぼーっと考えちゃうわけですね。ぼーっと。
そんなだらだらの週末を過ごした帰り道、鋸南保田の地元のスーパーで魚を買って帰ろうとしたら、海に夕日が沈んでいました。海のむこうが次第に鮮やかなピンク色に染まるのは、ここが西向きの海岸だから。
昔、父は旅行先でいつもいつもいつーも、「ほらあっちに富士山が見えるよ」「ほら富士山がきれいだよ」と、富士山を指さし、写真を撮ってばかりいました。妹と「ふじさんおじさん」と言って笑っていたほど。興味の対象がごくごく限られていたこどものわたしは、富士山を見ても「だからなに?」と心が動くこともあまりなく。
なのに最近、富士山がきれいに見えて仕方がなく、こどもたちに「ほら富士山が見えるよ」をやってしまっています。
あの遠い富士山を見るように、遠い未来を思い、それから手元のことに心を砕き、また遠くに意識を馳せる。そうやって、お天道様のほうにまっすぐ飛んでゆくことのできない人間は、自分で行く道を探し探し生きていくんでしょうね。
今週もがんばろう。