夏の名残のひとしぼり、みたいな暑い日がつい先日までありまして、今では冬の気配すら感じるときもある、定まらない秋のど真ん中。
みなさん、いかがお過ごしですか?
わたしは寒いのが苦手なので、天気予報を見て「まだ暑い日来るか?よっしゃ」とひそかに前の季節にしがみついています。だって裸足にサンダル、ぺろんとTシャツ1枚で過ごせる季節が好きなんだもの。楽なんだもの。人間を始めて40年以上経ちますが、未だに秋に何着ていいか分かりゃしない。着脱できる重ね着オシャレ?ああ、なんてめんどくさい。
そんなわたしの戯言などお構いなしに、見上げれば群青の空。
そう、悪いばかりじゃないのは分かってます。いい部分もある。草の伸びがペースダウンして、お米が美味しくて、金目鯛が美味しくて、実は枝豆が美味しくて、それから果物がいろいろ美味しくて。
まあ、これだけ美味しければプラスマイナスでプラスですかね。
野良仕事も夏ほどハードではありません。日差しが柔らかいので消耗が少なく、ちんたらと作業を続けて我に返ると、もう斜陽。おかげで稼働時間は短くて、のんびりが増えます。ついこの間まで19時過ぎても明るかったのにね、今では17時だともうとっぷり夕暮れだ。
やれやれ~と家に戻る途中、熟れた柿が目に留まりました。
いい色だけど、残念ながら渋柿です。
「ここらの渋柿はよぉ、干したってカチカチになっちまうんだよなあ」とご近所のおじさんが言っておられたのが耳にこびりついて、しょうもないものだと思い込んで放置しています。カラスも食べないんだよな~この渋柿は。と一瞥して通り過ぎようとしたとき、ふと心の中に、小さなイタズラ鬼が生まれちゃいました。
……そ・う・だ。
娘の友達が来ているし、渋柿でいっちょやったろか。
「ねえ、あなたたち、外に来てごらん。いいものがあるよ!」
天気がよいにもかかわらず、家の中でごにょごにょ遊んでいた娘のマメと友達のYちゃんは、なになに?どんないいもの?と飛んできました。思惑通りだ。
わたしの手には、よい色の柿がひとつ。
そそられる橙色です。
「これあげる。食べていいよ」
のぞきこんだYちゃんは、すぐさま嬉しそうに手に取りました。
そして、「ありがとう!」と、がぶり。
その横でマメが「あっ」と息を飲んでいるのに気づかずにね。
「どう、美味しい?」
彼女は最初、うん、というように笑みを浮かべましたが、その数秒後に大きく顔をゆがめて「び、びみょう、、、」と。
あはは!びみょうか!
わたしに妙な気遣いを見せて「微妙」と表現するなんて、かわいいぞ。
マメは、「あーーやられちゃったー」と大騒ぎ。「ひどいよね、ママ!わたしなんて毎年騙されるんだよ、大丈夫?」とか言っちゃって心配そうなそぶりを見せますが、目は完全に笑っています。「で、渋い?口の中どうなっちゃった?」と質問を連発して何だか嬉しそうじゃないの。
Yちゃんは「すごいびみょお」と言いながら、渋すぎて逆に笑っちゃう状態。それを見たマメは、「えーどれくらいすごい?」と聞きつつ、確かめたいあまりに自分もかじり、「うぇ~~~~しぶ~~~~」と地団太。
それを見たYちゃんは、さらにちょっとかじって、「ぎょぇ~~~~しぶ~~~~」と地団太。
もはや“渋い”を楽しむイベントだなこりゃ。思惑通りだ。
もちろんわたしもかじってみます。
……うわあしぶい!
噛んだ瞬間はなんとなく甘い気がするんですよね。それで確かめるように噛んでいくと、口いっぱいに渋みが広がって、次第に口の内側にザラザラした粘土がへばりついたようになり、口の中がしびれたようなおかしなことになります。
そうそう、これが渋柿の渋さだわ。1年に1度くらい確かめたくなる強烈さ。
「これはね、渋柿のタンニンのしわざだよ。甘柿にもタンニンは入ってるけど水に溶けない状態だから渋さが出ないの。むこうに甘柿がいっぱいなってるから、お口直しに食べてきてごらん!」
こどもたちはもう、わたしの話を最後まで聞かずにぱぱーっと走って行ってしまいました。
渋柿をナマで食べるって、東京ではなかなかないですよね。
“渋い”って、どんな感覚なのかも、知らないで育つこともありそうです。一般的には親が先回って、渋いものを除去して与えますから。うちの子たちも、グミの実すら渋いからと言って好みません。日頃、完成度の高い味のものだけが売られているかってことですね。
そういえば、息子のニイニは、何でもかんでも試すクセがあり、小学生のときにはそれが昂じて「野生を喰らう」という自由研究をしていました。美味しいものだけでなく、ぎりぎり可食というものも試すんで、家族は何かと迷惑した覚えがあります。
とりわけひどかったのは、たしかヤブカラシ。図鑑には「食べられる」と書いてありましたが、お浸しにして食べたらまったくひどい味でした。
食べられるものを見つけたら、喜んで、食べる。
その体験を重ね続けていたこどもたちは以前、保育園の散歩中にノビルを見つけて、勝手に食べて、その上友達にもオススメして、先生に怒られたことがありました。「食べられるものだ、とマメちゃんは言いますが、保育士には判断ができませんので、やめさせました」と親にも説明があって。きっとマメは瞬時にノビルを見分けて「これ美味しいんだよ!」とやったんでしょう。危機管理上、保育士の先生の判断は正しかったのだと思いますが、マメはさぞやがっかりしただろうと少し可哀想で、自分が先生だったらどう対応するだろうなあと考えたものでした。持って帰って、図鑑で調べて、「食べられるみたいだね」と確認するところまでならやってあげられるかな、など。
じつに、都会では、道端で食べられる草や実を見つけたからといって、あまり口にしませんよね。
たまに柿の木がある家があっても、誰かがとっている光景をほとんど見たことがないし、そのおうちの方さえ収穫していないんじゃないかという状態をよく見ます。もったいないなあと思うんだけど、ひとさまの家の柿をもぎまくるわけにもいかなくて、胸がきゅーっとなる。
そんなわたしも昔は、柿がなっているのを見たって「もったいない」などと思いませんでした。南房総暮らしの中で、四季折々の果樹の収穫を楽しみにするようになって、その感覚が都市生活にフィードバックされちゃった次第。
「あのビワもったいない」「あーそこのグミの実、とりたいなあ」「あんなに梅!!」と、見かけるたびに思わずぶつぶつ言う母親のことが、だいぶウザいみたいですね、年頃の娘たちは。東京では東京の親らしく振る舞え、ということでしょうかね。人目なんて気にしちゃってさ。女の子ってめんどくさいな。
と、そんなこんなで、相対的に「甘柿って美味しいんだ!」ということを認識したYちゃんとマメは、柿をたーくさん収穫して、丁寧に家の玄関先に並べていました。
『柿屋』という宿屋をする想定。
ちなみに、Yちゃんのママに柿をほおばる2人写真をLINEで送ったところ、「自分で獲った柿を食べる体験なんて、あの子初めてだと思う!美味しそう」というメッセージをもらいました。
ホントはそれだけじゃなくて、渋柿まで食べているんだけどね。笑。
「たしかよく晴れた秋の日、恐ろしく渋い柿を友達のママに食べさせられた」という記憶が、それほど悪くないものとしてTちゃんに残りますように。