週間天気予報に傘マークが並び、傘を持つ手はふさがり、自転車ならぱっぱと行ける場所にも電車を使わねばならず、毎度洗濯物の匂いをくんくん嗅いで確かめる必要があり、せっかくしまった上着を引っ張り出すほど寒くなることもあり、好きな飲み物を手に外のベンチでひと息つく自由さえなくなる、梅雨。
ああ梅雨前線。ふーふー吹き上げてどっかへ飛ばしてしまいたい!
と、つい先日まで思っていましたが、今年みたいにあっさり「梅雨あけました」と言われると調子が狂いますね。
わたしは、夏という文字を見ただけで「なんか楽しいことがありそう」とやみくもにワクワクするほど、夏好きです。なのですが、移行期間が短すぎるとダメなんですね。くわっと照りつける強烈に陽気な日射を、心身共に受け止めきれません。会ってまだ3度目なのに「結婚してください」と言われるようなもんですかね。えーそんなそんな、まだあなたのことよく知らないしどーしましょ!っていう。ふふ。経験ないけどさ。
それからもうひとつ。梅雨明けが早くて残念なことがあります。
それは、梅雨の隠れメリットでもある「渋滞知らず期間」が早くも終了してしまうこと。
多くの人は、天気予報が「梅雨です」と言っている間はあまり遠出をしない。そして、「梅雨あけました」と宣言が出ると、途端にもりもり出かけ始める。実際の天気を見てお出かけの計画をする人より、頭で理解した季節にのっとって行動を決める人の方が多い、ということを、二地域居住12年の経験から学びました。
夏になると、房総半島へわたる東京湾アクアラインやそこから南下する館山自動車道は、朝早くからカチンコチンに混み始め、午後早い時間に現地を出てもきっちり渋滞にハマるのが定番です。
それに比べ、梅雨の晴れ間はゴキゲンです。雨で塵や埃がすっかり洗い流され、遠くまでよーく見える透き通った空気の中、「みんな出かけないんだね」とニヤつきながらすいすい車を走らせることができます。
まあ、夏の南房総は極上だからね。
みんなが訪れたくなるのも分かるし、わたしも毎週楽しみだし。
移動のタイミングを深い夜と早い朝にして、渋滞回避につとめよう!
……ところでみなさんは、目的地へ向かう車での移動時間について、どう考えていますか?
運転は疲れる、何もできない時間がもったいない、という人も少なくないでしょう。
わたしもよく「往復が大変じゃないですか?」と言われます。
二地域居住というライフスタイルにつきものなのが、この移動時間。
渋滞のない時間を正確に把握しているとはいえ、毎週末1時間半×往復=3時間の移動をしているわけです。12年間で少なくとも300往復以上していますから、ざっくり考えても、900時間以上を移動に使っているわけです。
なんと37.5日分です。
ということは、わたしは人生の中の37.5日という時間を、ごっそり捨ててきたのだろうか?
ふと、そんな疑問がよぎります。
人生の終焉を迎えようかというとき、「ああ、移動時間さえなければもっと充実した人生だったろうに」と臍を噛むのだろうか?
ドライバーという立場であることの多いわたしは、この37.5日間、車の中でこんなふうに過ごしてきたと思います。
① 運転
② 風景を見る
③ 音楽を聴く
④ 同乗者と話をする
⑤ 考え事をする
何の特殊性もないこれらひとつひとつですが、塵も積もれば何とやらで、わりと大事な要素としてわたしの人生に蓄積していることに気付きます。
①は本来目的。多少は運転がうまくなったか?
ちょっと驚くような細いあぜ道も、落ちずに通れるくらいの技量はつきました。
ただ一昨年、こーんなところにいらしたのね、というパトカーがわたしの一時停止違反を見つけてくれて、ゴールド免許はなくなっています。安全運転を心掛けなくちゃね。
②は、現地に居る時と同じかそれ以上に、季節を感じる時間となっています。
アクアラインを渡る時はいつも「今日はどんなかな」と思います。春霞みで遠くが白く溶けていることもあれば、世界の果てまで見通せるのではないかというほどくっきりと見渡しのきく秋もあり。地面の霜に朝日が当たって水蒸気が立ちのぼる館山自動車道の冬の朝は、温泉地のような風情があり、初夏になると照葉樹の新芽や花のまばゆく光る様子が目に飛び込んできて、毎年毎年、「うわあ、一番緑がきれいな季節が来たね」とつぶやきます。
その夏初めて入道雲を見た時の高揚感は、推して知るべし。
そして③ですが、これはわたしにとっては、こどもたちの世界に触れる時間となっています。
高3男子ニイニ、中2女子ポチン、小4女子マメの好む音楽は個々さまざま、ばらばらで、普段はそれぞれが自分の趣味の音楽をイヤホンやヘッドホンで聞いていますから、親がそれを知る機会はほぼありません。一方、狭い車内では、じゃんけんで勝った人から順に自分の音楽を流していいというルールに則って30分交代で音楽の聴き合いをすることになります。
ニイニの趣味は極端で、ちんぷんかんぷんのラップか、70-80年代ロック。ラップをかけてくれる時は、一体これのどこが面白いの?と率直に聞き、歌手のエピソードも含めてレクチャーしてもらうことも。教えてもらってもやっぱりさっぱり分からないけどね。クィーンやデビットボウイ、スプリングスティーンは一緒に絶唱。忌野清志郎が流れると「くうーー、こんな歌、今は誰にもつくれないよね」と感涙の車内に。
ポチンは非常に個性的で、親世代が理解できるのはサカナクションや相対性理論、ぎりぎり米津玄師まで。そのあとに続くボカロの曲は、高音の電子音での早口の歌詞でほぼ聞き取り不可です。それでも、「この曲に出てくるこの歌詞は、さっきの曲のあそこに繋がっている、っていうストーリーがあるんだよ」と解説を聞くのは面白く、歌詞の内容は意外と深いんだね、とコメントすると「そうなんだよ、恋愛のことばっかり歌ってるそこらの曲と違うんだよ」と食いついてきます。
そしてマメは、合唱コンクールの課題曲オンパレード。あはは。自身が小学校の合唱団に所属していたからです。「曲は、地球をつつむ歌声。歌は、なんとか小学校のみなさんです」というマニアックな合唱の録画をYouTubeで探してきて、聞きながら歌います。アルトを朗々と歌われると何だかもどかしくなり、わたしがソプラノパートを補ってあげると「ママの声はおばさんくさい!やめて!」と猛烈に嫌がります。それにしても合唱曲は、聞きこんでいくと心打たれるものが多いんですよね。
ちなみに、わたしが大好きなのは『学校のにんじん』という曲です。好き嫌いの多い子が、にんじんやセロリのかけらが食べられず、居残りで食べさせられていると掃除の時間になり、給食にお掃除の埃が降ってくる、という歌詞。何とも言えないこども目線の内容で、胸いっぱいになります。
……そんなことを話していると、学校でのあれこれまで話題が広がっていくため、これは④に重なってきます。真正面から「学校どうなの?」「今考えていることは?」と聞いても「大丈夫」「特にない」とかわされてしまいますが、こうして話を重ねていると、こどもたちの日々のありようが何となく見えてきます。
そして、⑤。
これは、みんなが寝てしまったあと、ひとりでこっくりと物思う時間です。
難しい仕事のあれこれを振り返ったり、ミーティングの内容をもう一度噛みしめたり。大きなアイディアが出てくることはさほどないのですが、自信のないことや、活路を見いだせずにもやもやしていることについて正面から向き合ういい機会になります。そうして考え進めるとき、なるほど“もやもや”こそが最大の敵だな、と気付くことも。同じ厳しい現実があったとしても、問題点を明確に認識し、進めるべき方向性を描いている時には不要な不安がありません。ところが向き合いが甘くて“もやもや”がある時には、闇雲に不安が増大していく。運転時間は、そんな“もやもや”退治のひとときなのです。
仕事だけではありません。とりとめもなく浮かぶ人、浮かぶこと、浮かぶ思いに身を委ねていく時間は、ハンドルを持ち他になにもできないからこそ得られるもの。先日はふと、中学の担任の先生を思い出し、それをきっかけに、久しぶりに近々お顔を見に行くことにしました。
もし、どこでもドアがあったなら。
どんなに効率的に暮らせるだろう!
どんなに自由な時間が増えるだろう!
と、今でもドラえもんを夢想することがありますが(ついでにパーマンのコピーロボットも欲しい)、目的と目的の間に存在する移動時間は、実は心を切り替えるためだけでなく、それ自体に明文化されない豊かさが潜んでいるのかもしれません。
季節もそう。少しずつ移ろうからこそ、四季はどれも待ち遠しく、日本の風景は多様に美しいのでしょう。
それにしても、勝手だな。
梅雨が長ければ長いで不満たらたら。短ければ短いで文句を言って。笑。
法外に早く訪れた暑さを持て余しながら、今年は今年のやり方で応じていく他ありませんね。
ちなみにこどもたちは、そんなニュアンスなどまるでなく、一気に夏休み風情になったことをただ、喜んでいるばかりです。