暮らし術 dual-area-life-63_main2

「ああ、秋が来た」とわたしが感じたのは、8月18日の土曜日でした。
その前週に南房総を訪れた時には間違いなく盛夏で、1週経ったら風景が一変。

 

田んぼが一気に黄金色へ。鳴く虫は秋の声へ。

田んぼが一気に黄金色へ。鳴く虫は秋の声へ。

 

梅雨明けが早かったせいで、今年の夏はやたらと長い気がしていましたが、終わってみて残るのは、一抹の寂しさと、黒い肌と、見つけるとなぜか拾ってしまうセミの抜け殻たち。そして、夏だからそんなにチャキチャキ捗らないもん!という言い訳が許されたような気になって積み残してしまった仕事たち。ふう。
みなさんは、どんな夏をお過ごしでしたか?

わたしにとって、南房総で過ごす夏は、「なぜ二地域居住を続けているんですか?」という問いの答えが凝縮したような時間があります。それだけ、田舎暮らしの良さが際立つ季節なのでしょうね。

 

まずは、東京よりも俄然涼しい、ということ

ついぞ冷房は一度も使いませんでした。
都心では40度越えという気温をたたき出し、「命の危険がある暑さです。皆さん冷房は躊躇なく使いましょう」とニュースで何度も呼びかけているのを“南房総で”見ていると、渋谷などでリアルに命の危険レベルを体感しているわたしでも、ちょっとした違和感を持ちます。「昔の人は冷房なんかなくても耐えられたのに、現代人はひ弱になったもんだ」とでも言いたくなるかんじ。南房総のみなさんも暑い暑いと言っておられましたが、東京に比べたらもう、炎天下でも「涼しい」といっていいと思う!

日中の野良仕事でたっぷり汗をかき、ふうふう言いながら家に戻ると、日陰+風があるだけで随分心地いいです。プラス扇風機があればもう完璧。冷やした濡れタオルを首にあてて休むと、すうっと汗がおさまります。
夕刻16時を過ぎると、「かなかなかなかなかなかなかなかな」とヒグラシが鳴き始め、一気に外気温も下がり始めます。ぺらっと1枚サンドレスを着た状態で海際に遊びに行ったら肌寒く感じるくらい。「日が沈むと、ちゃんと涼しくなる」ということがどれだけ身体を楽にするのか、ひしと感じるひとときです。

 

この安い古い扇風機1台で、南房総の我が家の夏は乗り切れました。

この安い古い扇風機1台で、南房総の我が家の夏は乗り切れました。

 

東京の小学校に通う下の娘は、夏休みの水泳教室があるので炎天下の中ヒーヒー言いながら学校に行くと、校門に「今日のプールはありません」という看板がかけられていて、そのままとんぼ返りする、ということが何度もありました。水温が高すぎて入れないという事態は、去年まではなかったと思います。
もちろん夜もべったりと暑さが張り付き、クーラーを切っている時間がつくれないほど。密集した家々の室外機からすべて熱風が放たれている街はさらに暑くなり、さらに冷房が強まり、都市の夏のこの悪循環はどうやったら止まるの!!と思わざるを得ません。

だいぶ前、アメリカの砂漠を旅した帰りにラスベガスに寄った時のこと。夜も空が明るく照らされるほど街中が満艦飾(まんかんしょく)に輝いている状態を見た当時小学生の息子が、「ねえママ、これじゃあ、地球はもたないよ」とつぶやいたのを思い出します。その光景はキラキラと美しいのですが、あまりにも環境に負荷をかけすぎている状態を見ると本能的に息苦しくなるのでしょう。

南房総がとりたてて環境的に正しくふるまっている場所かといえば、そんなことはないんですが、ただ地面に土があり、蒸散作用があり、大地がちゃんと呼吸する中にいると「楽だなあ」と感じるのは本当です。そしてわたしもとりたてて環境コンシャスだとは言えないけれど、ちょっとちょっと人間さん、生きものとしてさ、もうすこし分散して暮らした方が心地よくないかしらね?という思いが膨らんできます。

 

特別な体験が、とても近いという贅沢がある

我が子の中で一番控えめな真ん中の娘が、「ねえ、今年も花火、見られる?」「ねえ、花火の日に、南房総に行ける?」と何度も言ってくるので、よし絶対行こうねと向かったのは、館山湾花火大会でした。
もうひとつ、うちの近場で大好きな岩井海岸の花火大会もあるのですが、そちらはタイミングが合わず。「館山の花火大会は、最近有名になって人出がすごいから大変だよ」という前情報をもらいながらも、娘のためならエンヤコラです。

わたしは昔から花火大会が好きで、若い頃は隅田川の花火大会に毎年通っていました。
付近の駅から大混雑で、行列の合間にガードマンが立ち「お進みください」「止まってください」と書かれたプラカードを掲げ、みんなが満遍なく花火が見られるよう動きを制御していたのを覚えています。今もそうかな?
人混みが大嫌いなのに、そのプラカードの行列に並んでもいいと思う程、近くで見る花火は何にも代えがたいものでした。娘にとっても、花火は特別な価値があるのかもしれません。

付近の駐車場は満車必至ということで、少し手前の駅前に車をとめ、館山駅まで電車で向かいました。

 

ローカル線の駅は、なぜこうも魅力的なんだろう

ローカル線の駅。単線。

 

JR内房線はいつ見てもガラガラに空いている電車で、「廃線になりませんように」と願うほどでしたが、この日だけは特別。車内には華やかな浴衣女子やら、部活帰りの泥っぽい高校生男子やら、キュウキュウ鳴る靴を履いたこども連れやら、日常と非日常の風景が折り重なってごった返していました。なんだかとても新鮮。車移動ばかりの週末だと、分からない風情があるものです。

館山駅から海岸に出るまっすぐな道も、見たことのない人の量。それでもプラカードを掲げるには及ばず、賑わいを楽しめる程度です。夕闇に溶けていく椰子の木を見やりながら、潮風に吹かれて歩くのは悪くありません。

 

駅から海岸にのびる道の街路樹は、椰子。

駅から海岸にのびる道の街路樹は、椰子。

 

打ち上げ会場は、北条海岸。海沿いの道で屋台で焼きそばと小籠包を買い、どおどおと押し寄せる人の波に「ひょっとしたらもう座る場所ないかな」とすこし慌てながら海岸に急ぐと、人影は驚くほどまばら。大勢の見物客は、広い海岸でふわっと散ったようです。

どこにでも座れて、日の落ちる海を見ながら花火を待つ。
開始までの1時間は、ただいるだけでうっとりするような、柔らかな海時間でした。

 

波の音がBGM。

波の音がBGM。

とっぷり日が暮れ、海岸もそこそこ人で埋まってきた頃、満を持して始まった花火大会は圧巻でした。きっと間近で見られるんだろうなと思っていたけれど、これほどまでとは思っていませんでした。左前方から打ち上がる花火は、頭の直上でぱあん!とはじけて開きます。音と光が、それほどの時差もなく届くほど。その音、火薬の匂い、光に覆われる美しさは、動物としての感性を全部揺さぶられるほどの迫力です。

 

世の酷い汚い悲しい部分がすべて闇夜に溶け、美しい夢だけが全身を覆うひととき。電気などなかった昔、花火は、人々が見たかった夢そのものだったのではないかと思いました。

世の酷い汚い悲しい部分がすべて闇夜に溶け、美しい夢だけが全身を覆うひととき。電気などなかった昔、花火は、人々が見たかった夢そのものだったのではないかと思いました。

 

こどもたちも「うわあ~」と思わず感嘆の声を発していました。が、次の瞬間「あっ、なんか降ってきた」「なにこれ、うわ!」と焦りの声もまじり、わたしの腕にも何らかの小さな物体が落ちてきました。

空を見ると、雲がものすごい勢いでこちらに向かって流れてきています。花火会場から海辺に向かって強めの風が吹きはじめたのです。風に乗って、火の粉のようなものまで飛んできているのかもしれません。

「熱くない?」「大丈夫だけど、ちょっとこわい」そんなことを言いながらも、わたしたちは海辺の花火にふたたび惹きこまれていきました。

 

仕掛け花火に息をのみます。

仕掛け花火に息をのみます。

 

そうしてしばらく楽しんでいたのですが、ふと、花火が途切れました。
どうしたのかなと訝りつつ、アナウンスどおりに待ち続けていましたが、なんとこの日そのまま中止へ。強風により危険と判断されたそうです。

尻切れトンボでしたが、だからこそなのか、今でもあのひとときが幻のように思えてなりません。
砂の上に座る誰もが、等しく、充分に、贅を尽くした美しさを目にすることのできる花火大会。どこもかしこも特等席だから争いもなし。本当に幸せな空間でした。

 

田舎暮らしの魅力の原点は、足元に

最後に、ひとつ。

去年と同様、8月のお盆前、恒例の道普請がありました。
集落のひとたちで道沿いの雑草を刈り、さっぱりさせてご先祖様を迎えるためです。

一斉に刈払い機をうならせ、途中お茶飲みながらひと休み、その後残りの作業をします。きつい仕事ではないとはいえ、炎天下で身体を動かすと当然汗が噴き出ますし、ふうふう言いながらおしゃべりするひとときも楽しいのですが、高齢の方にとってはなかなかの重労働に違いない。
うちのすぐ下にお住いのおばあちゃんは、みんなが刈り残した雑草をせっせと鎌で刈り、道端にまとめておられました。額からはキラキラと汗がこぼれます。曲がった腰や刻まれた皺の印象がふと消えるほど、今生き生きと生きているという熱量が伝わってきて、思わず見とれてしまいます。

すこし耳が遠いので「もう、休憩の時間みたいですよ」とお伝えし、一緒にペットボトルのお茶をもらいに歩きました。

 

麦わら帽子、わたしとおそろい。

麦わら帽子を背負って。

 

「暑いですけどね、昨日よりはましですね」「そうですね、日がかげるときは楽ですね」と話していたところ、ふと、足をとめるおばあちゃん。

「あら」

腰をいよいよ丸めて、足元ををじいいいいっと見つめます。
ん?なんだろう、とわたしも一見何もない道路を一緒に見つめると、何か白い小さいものが、アスファルトの凹凸の間にいるような。

 

とても小さい。脚を入れても1センチ程度。

とても小さい。脚を入れても1センチ程度。

 

「まあ、かわいいね。カニみたいな、クモかしらね」

ますます小さく縮こまり、このカニみたいなクモを見つめ、「生きているのかしらね」とおばあちゃん。わたしがふっと息をふきかけると、ちょろ、ちょろちょろと動きました。

「かわいいね。こんな、熱い地面に張りついて、歩いて、生きてますね」

そうですね、と応じながら、何かこみあげるものがありました。
わたしがこの夏いちばん、南房総で心打たれたのは、この時だったと思います。

小さなクモに目をやり、いつくしみ、そうして暮らしているおばあちゃん。何ということはありません。でも、きっとわたしが南房総での暮らしが好きな理由は、これなんだなあと思いました。

地域の良さをアピールしたり、心地いいコミュニティをつくろうとしたり、体験会をしたり、出張セミナーをひらいたり、この地域に新しい住み手を誘致するために地方はいろいろな努力をします。もちろんそれも大事なことだと思い、自分もそうした取り組みをしている1人です。ただ、何かいつも、田舎暮らしの魅力の本質に届かないもどかしさを感じていました。

きっとわたしは、おばあちゃんのような眼差しを持つ生き方が、好きなんだと思います。
いえ、もっと言うと、その眼差しの先にある、クモが好きなんだと思います。
でも「小さなカニみたいなクモがいるよ」じゃあ、伝わらない。「小さなカニみたいなクモを見つけて心動く暮らしがあるよ」でもなかなか共感が得られない。そうして、ざっくりと、「自然が豊かなところなんです」なんて言っちゃう。

地元の人たちが、特に誰に何をアピールするわけでなく、綺麗な花だけ丁寧によけて草刈りをしたり、夕日の色の違いや風の匂いについて会話をしたり、ふと小さなクモを見つめたりする。人間という生きものが生きる時、この立ち位置にいたいと、心から思うのです。

・・・・・・

まだまだ残暑が厳しいですが、秋もまた、楽し。きっと。
この黒い肌がもうすこしおさまる頃、また書きます。

 

※本記事は、馬場未織氏の知識と経験にもとづくもので、わかりやすく丁寧なご説明を心がけておりますが、内容について東急リゾートが保証するものではございません。
※本記事の情報は、公開当時のものです。以降に内容が変更される場合があります。
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