たとえば、1カットが1回分のランチ代くらいする高級で美味しいケーキを食べる時。
たとえば、ほそーいボトルに入ったとっておきのオリーブオイルをサラダに使う時。
たとえば、自分の生まれ年のヴィンテージワインを繊細なグラスに注いでもらった時。
何ともいえず気分が上がり、その特別感をうっとり味わいますよね。
贅沢は、暮らしのスパイスです。「お腹に入ってしまえば同じよ」と笑う時もあるくせに、「やっぱり違うわねえ」なんてしたり顔でうなずくこともあるという、人間って本当に都合のいい生きものです。
世の中には、多分わたしが味わったことのないような贅沢を味わい、楽しんでいる人が山のようにいるのだと思います。有名で、最高級で、スペシャルで、限定なやつ!インスタなんかに溢れているやつ!
いいなあ~。羨ましいなあ~。わたしも贅沢したいな~。
ちなみに最初に挙げた3つのうちの最後の1つは経験してないな~。
などと言いつつ、実はそれほどいいなあとも思っていない自分の妙な無欲感が、ちょっとおかしい。だって、なければないで成立するんだもの。ないと困る贅沢品って、そんなには見当たらない。あはは、なんだかつまらない感性だな。
一方で、贅沢は贅沢でも、他の人にとって価値があるかは分からない“自分だけの贅沢”があり、それには当然こだわります。「ちょっとこの贅沢は手放せないわ」と真顔で言いたくなり、これらが欠けると暮らしが一気に色褪せるという意味では贅沢且つ必要不可欠なものたちです。
自分だけの贅沢。
それは、手にし、味わう時、そのものたちができるプロセスがありありと目に浮かび、ある種の感慨とともにたまらなく豊かな気分になる、そんなものたちです。
あなたと共有できる贅沢ではないかもしれませんが、2つだけ、聞いてください。
1 飲みながら風景の浮かぶ牛乳
うちの冷蔵庫で牛乳を切らすことはほとんどないけれど、それは牛乳を味わって飲むためではなく、コーヒーに入れるためか、料理のためです。なぜなら、毎日ごくごく飲むほど好きではないからです。
どうも、小中学校で毎日給食時に飲まされ続けたのが、あまりいい記憶ではないみたい。まったり生臭い匂いがすると、喉のフタが閉まったようになってうまく入っていかず、キンキンに冷えていれば一気に流し込んで何とか“終わらせて”いたものでした。
今も基本的には同じです。おいしい、と謳っている牛乳も特にそうは感じません。ちょっといい牛乳を買うようにして、こどもたちには「ジュースより牛乳」と推奨しているくせに、自分は飲まない。だってほら、大人って、自由だから!
ところが、そんなわたしにちょっとした衝撃が走る出来事がありました。
去年の秋口のこと。運営しているNPO法人南房総リパブリックでは毎年「MEETS南房総」という農家さん訪問ツアーをしており、今年は南房総市の酪農家、近藤牧場さんを訪れました。
そこで、牛を見る前に差し出されたのが、この牛乳。
くい、と一口飲んで、驚きました。
喉を滑るように通り抜けていく途中で、甘くて柔らかなクリームの風味がふわぁっと広がり、消えていきました。わずかに残る陽気なまろやかさも、雪解けのように消えていきます。そして、警戒していた牛乳のあの生臭さがない……本当にない!
もう一口飲んでみても同じです。口に入れた時は豊かな風味が広がるのに、喉を通ると何事もなかったかのように消えていく潔さ。こんな牛乳は、わたしは初めて飲んだよ!
「牛乳の生臭さは、通常130℃で2分間加熱処理した時にタンパク質が焦げる匂いなんですよね。この牛乳は65℃で30分間という低温殺菌をしています。それが、風味に現れているんでしょうね」
牧場主の近藤周平さんはシンプルにそう答え、牛乳の美味しさに沸き立つわたしたちを牧場に案内してくれました。
そこで目にしたのは、伸びやかに育てられている牛たちでした。
繋がれていない牛たちの、なんといい顔。
「ストレスのない環境で育った牛の牛乳は美味しい、という結論に行きついたんです」と、近藤さんは言います。
それはどういうことかは、牛を見るとちょっと分かる気がしました。
まず思ったのは、牛ってこんなに表情があるんだなあ、ということ。なんだなんだ、興味津々、気を許そうかな、楽しくなってきた、ちょっとウザい、など顔や態度で表わしてきます。広い場所に放されていると、感情のレパートリーが広がるのかもしれません。
牛乳を搾られるために生きるのではなく、牛としての人生、いや牛生を生き生きと生きていることが結果的に味に繋がるのだとしたら、それは何でなのでしょうね。
ふと振り返れば、自分が出産後に赤ちゃんに母乳を与えていた時、食べるものやストレスの有無で出やすかったり出にくかったり、味も良し悪し変わると聞き、なるべくのんびりした気持ちで過ごすようにしていました。ひょっとしたら、牛も同じなのかもしれません。
近藤牧場の牛乳は、南房総のハイウェイオアシス富楽里で販売されています。
手に入れて飲むたびに、いたずらっぽい目をした牛たちの顔や、広やかな牧場の風景や、近藤さんのちょっと怖いけれど暖かい顔が目に浮かびます。
きっとこの牛乳は誰が飲んでも抜群に美味しいと思うけれど、そうして思いを馳せることのできる贅沢は、こっそりとひとりで味わって楽しむことにしています。
2 麹屋さんが丹精し、わたしが丹精し、みんなで搾った醤油
もうしつこいくらい毎年毎年、手づくり醤油を搾った話を書いていますけど。
2018年4月4日に仕込んだ醤油を、先月無事に搾りました!
そしてね、今年はお味がとりわけ上々で、気分がいいんです。
毎年美味しいと思っていたけれど、搾り職人のてっちゃんこと木村哲詞師匠から「自分が目指している手づくり醤油の味に近い」というありがたい言葉をいただき、搾りに参加した友人たちからも「今年は美味しくない?!」「なんかぜんぜん違う、旨味がある」と言われて、(じゃあ去年までのはどうだったんだよ)と内心思いながらも目の前の醤油の出来を喜んでいる次第です。
なぜ、美味しい醤油ができたのか。
手作り醤油4年目のわたしのこの1年間の仕込みが良かったからでしょう!と鼻高々になりたいところですが、まあ、ひとりだけで威張りちらす話ではないんですよね。
考えられる要因を教えていただくと、だいたい以下の5点みたいです。
麹がいいこと
温度管理がいいこと
天地返しのタイミングが適切なこと
搾りがいいこと
火入れがいいこと
この中で、わたしが主体的に関われているのは、上から2番目と3番目だけです。
昨夏の猛暑は醤油の温度を充分に上げてくれたため、発酵が塩梅よく進んだみたい。日なたに醤油樽を置くときに黒い布をかけたのも功を奏したみたい。
そして、天地返しを「カビが生えない程度」の頻度で行い、去年しつこく返しすぎた反省から冬以降はじっと寝かせていたのも良かったみたい。
そして、あとは、わたしのおかげではありません。
搾りと火入れがいいのは、まさに搾り職人てっちゃんのおかげさま。
「本当にこだわる職人さんは、搾りを素人に手伝わせたりはしないんです。でも、みんなで搾るという時間を大切にしたいからね」と、てっちゃん。
そう。わたしが醤油をつくる大きな理由のひとつは、搾りの日が楽しみだから。
味見をしながら、美味しいだのまだちょっとしょっぱいだの、いろんなことを言いつつ友人たちがかわるがわる搾りに関わる時間は、何年目でも変わらず楽しいものです。そういう楽しさはさすがに味には反映されないと思うんだけれどね。少なくとも、こんなにいい時間が持てるのだから次の年もがんばってつくろう、という意欲につながります。
そして。
そもそもとても大事なのが、醤油の原材料です。
うちの醤油麹は去年から鴨川にある芝山糀店さんのものを使っていて、仕込みの季節になると引き取りに伺います。今年の麹も、先日引き取りに行きました。
麹をつくっているのは熟練のおじいちゃん。ではなく、とても若い男性です。
彼は小さな頃から、鴨川のおばあちゃんちに遊びに行くたびに麹づくの様子をそばに張り付いて見ていたそうです。「手伝っているつもりだったけど、今考えるとあれは邪魔でしかなかったです(笑)」と、及川さん。小学生の頃、「跡継ぎがいないからいずれ廃業してしまうね、残念ね」とお客さんが話しているのを聞き、家業を継ごう、と決意したとのこと。
中1の時に進路相談で「高校に行かずに芝山糀店で働きたい」と言ったら「お前はえらいなあ」と褒められた一方、家では父親に「高校行かないって何だ!」と怒られ、高校に進学。卒業後はいよいよ働こうとするも、「専門的な知識もないのに、麹屋なんていう特殊な仕事ができるわけがないだろう」とまた諫められ、東京農業大学短期大学部醸造学科に進学することに。ようやく卒業となるところで、今度はおばあちゃんから「この先何があるか分からないんだから、四大で学んだ方がいい」と勧められ、網走にある同大学の生物産業学部食品科学科に編入。学問として醸造と食品学全般を4年間みっちり学んだ後、とうとうおばあちゃんのいる芝山麹店で働き始めました。
麹づくりを志してから、働けるようになるまで、10年。小学生時分からその思いの強さはずっと変わらなかったそうです。
昨年、おばあちゃんが亡くなり、それからは彼ひとりで麹づくりを担っています。
醤油麹は作業開始から5日後に出来上がるため、麹の注文は1週間前までに入れるようにします。他の人の引き取り日と重ならないよう、「安房手づくり醤油の会」で共有している及川さんのスケジュール帳にみんなで記入していくという方法をとっています。
麹店に伺うと、日々、息つく暇もなく麹づくりに励む及川さんが、丁寧に育てた麹を渡してくれます。黄緑色の胞子で覆われた麹は、彼が麹室(こうじむろ)の中で温度や湿度を管理し、納豆菌の繁殖に気を遣いながら丹精したものです。
これを我が家の醤油樽にうつしてもらうところで、バトンタッチ。
そこから先、育てるのはわたしの役割です。
車の荷室に醤油樽をえいやっと乗せ、リアゲートを閉めて「いい醤油ができますように!」と及川さんと2人で手を合わせて祈る時、何だか胸が熱くなりました。
人の力と麹の力と、天候と、みんなで力を合わせてつくっているんだなあ、って。
そんなわけで、日々の暮らしの中で醤油を味わうたびに、搾りに来てくれた友達の屈託ない笑顔や、てっちゃんの火入れのときの真剣な顔や、及川さんのひたむきな顔が浮かびます。黄緑色の大豆の、発酵を待つ味も。
わたしにとっての贅沢とは、その時、そのもの自体が持つ味わいを感じることに加えて、できるまでのさまざまな物語を思い返してにやにやすることで、あり。
にやにやしながら、普段よりも集中して美味しさを感知することで、あり。
「でもこれって、わたしの思い込みじゃなくてきっと本当に美味しいんだよな」なんて一生懸命冷静にもなろうとする滑稽な心の移ろいでも、ある。
言ってみれば、人生を深く味わう時間そのものなんでしょうね。