「田舎の家は、広くていいですよね!
東京の家と違って、こどもがバタバタしても足音を気にしないでいいし、床でごろごろできるゆとりがあるし、外と地続きに暮らせるし。のびのびできますよね!」
はい。
まあだいたい間違いないです。
都市部だと広い家だなんて自慢ですか?となりますが、田舎では健やかに語られるのは、広くても安いからですね。
「狭い家に心地よく暮らす」というのは都市生活のメインテーマで、その道の達人がたくさんいます。でも「広い家に心地よく暮らす」ことを取り上げている雑誌はあまりない。日本人の気質として「難しいけれど工夫して住まう」ことを好むところがあるのではないかと思います。
広ければ工夫もせずに、モノの置き場、家具の配置、人との距離感、屋外生活の有無など、だいたいの居住環境的課題は解決してしまうしね。
とはいえ、広けりゃいいってもんじゃあない。
広さの程度にもよると、わたしは思っています。
それから、どこが広いかにもよると、思います。
我が家は、住宅部分に関しては、一般的な古い農家のつくりです。ふすまを開け放てばがらんと何もない一間続きの空間で、民宿でもできそうなかんじ。広いですが、想像の範囲内です。
問題は敷地です。
すでに何度も話題には出していますが、うちは広すぎる。8700坪は広すぎる。
この土地に恋をして、広すぎることも覚悟の上でここに暮らし始めたのだけれど、正直そんな広さはいらないわけです。なんとかランドをつくる計画があるわけでもなし。豊かを通り越して過剰でしょう。
8700坪です、というと、大抵の人は「広くていいですね!」と言わなくなります。ひくついた笑顔で「そ、れ、は、大変ですね」といたわられます。「はい、この時期は草刈り三昧、竹刈り三昧、まったくのんびりできませんよ」と言うと、憐れむような表情を浮かべる人さえいます。そんな苦労を好き好んで背負い込んでこの人はバカなんだろうねと、思われていると思います。
広い敷地に心地よく暮らすためには、工夫ではなくガチの作業が必要。そこには、メディアで特集されるような素敵さはないみたい。ふふ。
こんな日々を13年も送ってきている我が家は、土地が広いことを暮らしに生かし切れていないのが正直な状態です。そして、きっとこの先もそうなんだろうと思っていました。
ところが、思いもよらないことって起きるのですよね。
わたしには絶対に探し当てることのできなかったこの土地のポテンシャルを見出してくれた人がいたのです。
陶芸家・西山光太さんが初めて我が家を訪れたのは、昨年の5月のことでした。
「安房(房総半島の南半分のこと)の土地は陶芸には適さない」というのが一般常識だそう。高温での焼きしめに耐えられず溶けてしまうとのことで、西山さんもそれまでは陶芸用粘土を購入して作品づくりをしていたといいます。ところが、どうもこの地域にも使えそうな土がある、と分かり始め、彼は安房エリアの各方面の土を試しながら「あわ焼」というブランドを生み出しました。
そんな中、たまたま友人の紹介で我が家を訪れたという次第。
いろんな場所の土が試したく、まとまった量の土が欲しい。
そういう要望ならいくらでも叶えられる土地です。どうぞどうぞと案内をし、何か所か掘っているうちに、西山さんはイケそうだという土を掘り当てました。
見ると、土の色が青い。
ここはなぜだか深い地層の土が表土近くに存在しているようで、これまで探していた我が家のあたりは一帯が粘土質の土壌なので、どこの土でもいいのかしらんと思いきやそんなことはなく、西山さんは粘性の高さなどを指で何度も確かめていました。
その後、ここの土を使ってつくってくださった器が、これです。
先日、彼が再び、我が家を訪れました。
以前「ちょっと入ってもいいですか」とひとりで練り歩いた裏山の中で、サンプルとして少量採取した土がとてもよかったとのこと。畑の土より、さらに固く焼しめられるそうです。できればもっと使いたいとバケツや背負子(しょいこ)、助っ人大学院生の福田くんまで携えてやってきたので、地主のわたしだって手伝いたいわい!と、ウホウホついていくことにしました。
たかが裏山、されど裏山。
まったく整備がなされていない裏山ですから、急斜面では手も使ってよじ登ることになります。前日に雨が降ったせいで、油断するとズルッと滑落しそうになるところもあり、3人で「大丈夫かー」などと声を掛け合いながら登りました。
西山さんはどんどん、どんどん進みます。福田くんは不慣れなのか、ややしんどそうです。「がんばって」とお尻を押すと、「会うのが2度目の馬場さんにケツを押されるとは」とぼやいていました。
西山さんは、たまに足元で気になる土の塊を見つけると、スコップを突き立てて土質を調べ、「これは釉薬(ゆうやく)に使えそう」などとつぶやきます。陶芸家というより、フィールドワークをする学者みたい。わたしも一生懸命のぞきこんで、どうすれば使える土なのかそうでないのか見分ける目を養いたいと思いましたが、まあ、そうすぐには分かるもんではない。
土を掘り、進み、土を掘り、進み、と繰り返しながらものすごくたくさん進んだ気がして、どんな山奥まで到達してしまったのだろうとスマホの地図で現在地を確認すると、「へ?」と思わず声が出るほど家から近い。道なき道を行くと、いつもの暮らしの場所からわずかにずれただけでも冒険している気分になります。
台風で倒木などあると片付けるのがとても大変で、「無駄に広いだけでいいことないわい」と悪態をついてしまうこともあるけれど、山の中でウロウロする楽しさが湧き上がってくると、裏山のある土地でよかったなあ、としみじみ思うんですよね。現金ですよね。
やや道を見失い、斜面をすべるように降りていると、「わあ、これは大きな木だ」と福田くんがつぶやき、西山さんとともにその木に駆け寄りました。
立派なスダジイです。
陶芸家と、大学院生と、地主のおばさん。
たいして親しくもないこの3人で山を登るという不思議。でも、次第に妙な連帯感が生まれてきます。
いい土は、あるかな。西山さんは、どこを目指しているかな。彼の想いをトレースしながら目的を共有しているのもまた、いい。
そうこうしているうちに、ちょろちょろと水の湧き出る小川にぶつかりました。
西山さんは、ハッと目の色を変えて「ここだ」とつぶやき、川のすぐそばに駆け寄りました。
「ここです、ここの土」
小川で土がえぐれて、深度のある場所の土が表面に露出しているこの場所は、良質な粘土が容易に掘れるという最適地とのこと。西山さんが何度も「粘土の質がいい」というので、わたしも指でこねてみました。
この土を、3人で持てるだけ持って帰りました。
福田くんは背中が反り返りそうなほど背負って、汗だく。わたしもバケツにいっぱい。西山さんの背負子(しょいこ)はきっと、大変な重さなんだろうな。
「コーヒー持ってくればよかったね」「いやビールですね」と言いながら、重くても、帰りの足取りは軽いのが不思議です。重たさは、未来の手応えですから。
西山さんと福田くんが帰り、ほどなく太陽が西に傾いてきました。
ちょっと早いけれど、よく働いたので今日はおしまい。
ほっとしながら淹れるコーヒーは格別です。
さらに格別なのは、このコーヒーカップ。
この日、試作品としていただきました。さっき掘った、小川付近の土でつくられたものです。
取っ手のような細工ができる強度のある土が安房エリアで採れたことに、西山さんは大きな可能性を見出したそう。
わりと華奢な取っ手ですが、指をかけてもびくともしない。
コーヒーの重さがしっかりと伝わってきます。うん、壊れなそう。大丈夫そう。
取っ手の強度にここまで想いを馳せたのは、多分人生で初めてだったと思う。
わたしが何より嬉しかったのは、ただの地面の土を「あわ焼」という作品にすることのできる西山さんと、巡り合えたこと。西山さんに大いに喜んでもらえたこと。
地主だなんて言いますが、わたしは何もしていません。たまたまうちの裏山だっただけ。それだけのことで、こんな場面に立ち会えた幸運に感謝します。
「馬場さん、この家は、陶芸家が住むべきですよ!」と、山の中で大きな笑顔を見せた西山さんを思い出しました。
なによ。陶芸家でなくて悪かったね。
でも、いつでも使ってください。
いつでも、いくらでもどうぞ。