暮らし術

あれよあれよという間に、2020年になりました。
今年もよろしくお願いいたします。

年末年始はいかがお過ごしでしたか?
皆さん、どれくらい肥えましたか?
わたしは例年通り「もうお腹いっぱいで食べられない」と何度も思う冬でした。
なら食べなければいいのに、お腹がいっぱいになっても目がまだ食べたくて、お箸は伸びる。意外と食べられる。これを繰り返し、結果的に現在は胃のキャパが3割増しになっている状態です。(これを書いているのは1月6日です。公開される頃にはもとに戻っているといいのだけれど)

もちろんおせち料理が美味しいというのもあるのだけれど、昨日も明日もひとまず仕事がなく、まわりもみーんな仕事をしていないからせっついたような連絡もなく、そういうわけで心が緩んで胃ものびーるんじゃないかと思います。

あらら

右は南房総ほんまる農園さんのお餅。左は安房いろは農園さんの玄米餅。元日を一緒に過ごす義理の弟家族は、このお餅が大好きです。ちなみに義弟家族の子らのお下がりは、我が家の子らへとまわってきて、次はほんまる農園さんのこどもたちへとまわっています。お餅と服とがぐるぐる交換状態!

さて、今年の我が家は、南房総へ①→年越し親戚巡りで東京→南房総へ②、といった風に過ごしていました。でも①と②はだいぶ心情が違うんですよね。
①は仕事納めのあと、師走のアップテンポな心身でルンルンと南房総に向かいます。冬支度もしたいし、友人のところの恒例お餅つきにも行きたいし、足を延ばして鴨川シーワールドにも行っちゃおうかなと足取りが軽い。

鋭意竹刈り中なのに、背中にクロが乗ってきてはかどりません。

鋭意竹刈り中なのに、背中にクロが乗ってきてはかどりません。

 

セイウチはいつまでも布団から出ないお父さんのようでした。

セイウチはいつまでも布団から出ないお父さんのようでした。

一転して、②はなんとなくだるいんです。めんどくさいんです。多分胃が重たいからだと思います。「はー、ずっと東京でだらだらやってんでいいかなー」とウッカリもう一度布団に入りそうになるかんじです。つい数日前なはずの去年は移動なんて屁でもなかったのに、ちょっとの荷物を車に乗っけて家族も乗っけて自分も乗っけて、という当たり前の一連の流れがだるい。お正月に骨抜きにされた身体というのは怖いものですね。

いつも「行ったり来たりは大変じゃないんですか?」と質問されると「もうまったく苦にならないです」と答えているのですが、本当のところは「たまに苦です」であります。

それでも、南房総の我が家に向かいました。
1番大きな理由は、どうしても焚き火がしたいから。
2番目の理由は、どうしても水仙を摘みたいから。
3番目の理由は、どうしても南房総で走りたいから。

相変わらず“やってもやらなくてもいいこと”が動機なわけですが、それでいいのです。そもそも二地域居住なんてやらなくてもいいことなんだから。でも、この3つ以外にも「ゲンゴロウのおばあちゃんに会いたい」とか「竹刈りが中途半端なところで終わってるから続きがしたい」とか「カマルのカレーが食べたい」とか「フキノトウ一発目が出てるか確認したい」とか「道の駅のレジのおばさんにご挨拶したい」とか小さな理由はたくさんあり、それらの集積がわたしの人生の価値だったりするので、自分にとってはマスト要件なのです。

そう、お餅やおせちで膨れ上がった胃が「動くのめんどくさいよー」と叫んでいても、それを黙らせるくらいのモチベーションにはなっているわけです。これぞ餅べーション!

ごめんなさい。

そんなわけで、うだうだ言いながらも重たい腰をあげ、行ってしまえば南房総もくつろぎの我が家です。

1番目にしたかった焚き火は、昨年の台風でダメになったビワや梅、倒れた竹や山から落ちてきた木の枝などを整理するというタスクも兼ねていました。まだ完全に乾いていないものもあり、燃えにくさに往生しますが、しっかりと火が定まると多少の無理でも受け入れてくれます。

夏から積みっぱなしの竹や笹の間から、七夕の短冊も出てきた。「スペイン語の単位がきますように」。こりゃ息子だな。年をまたいでお焚き上げ。

夏から積みっぱなしの竹や笹の間から、七夕の短冊も出てきた。「スペイン語の単位がきますように」。こりゃ息子だな。年をまたいでお焚き上げ。

 

キウイ棚も台風で倒壊してしまいました。これらを手際よく片付けてくれたのは、親愛なる友人です。うねうねとしたキウイの蔓はとても扱いにくく、自分で格闘してみて初めて片付け作業の難しさを実感しました。火にくべながら、感謝の気持ちがふつふつと。

キウイ棚も台風で倒壊してしまいました。これらを手際よく片付けてくれたのは、親愛なる友人です。うねうねとしたキウイの蔓はとても扱いにくく、自分で格闘してみて初めて片付け作業の難しさを実感しました。火にくべながら、感謝の気持ちがふつふつと。

野山の整理のために焚き火をしていると、時間を忘れます。
といっても、キャンプファイヤーなどと違い、ぼやっと炎を眺める風情ではありません。
目の前の火が絶えないようにずっと張り付いて火の塩梅を調整したり、炎の強さと見合う大きさの木っ端をくべるようウロウロ探したり、長い竹や枝はノコギリで切ったりと、結構忙しいのです。最後に熾火になって消火するまでのひととき以外は、ずっと立ち働いています。でも、これが楽しい。「焚き火」という職業があったらわたしは就職したい。
ただ今回は、燃えにくい太い材への火付けに夢中になり、あとで鏡を見たらまつ毛の先がチリッと燃えて丸まっていました。年始早々やらかしちゃった。

熾火のゆらぎは、いつまでも見ていられます。

熾火のゆらぎは、いつまでも見ていられます。

 

2番目にしたかった水仙摘み。
南房総では水仙の開花が早く、例年は年越しの時には満開になっているのですが、今年は1~2週間遅れていて年末はボチボチの開花でした。年越しの時、東京の家の玄関に豪勢に活けて、家じゅうを水仙の香りで満たすのがささやかな喜びだったのに。

ほんの数日後、年明けには一気に花開いていました。
風に乗って届く、あの甘やかな匂い。

日の光に透かして見る水仙の花が好きです。

日の光に透かして見る水仙の花が好きです。

 

匂いの記憶というのはしみついているもので、水仙を嗅ぐとなぜか卒業式前の別れの雰囲気が体に蘇ってくるのでした。もう、うん十年前のことなのに。

でも今年になって変化がありました。
新たに色濃く立ち上がってきた記憶は、この土地に暮らし始めてすぐの風景でした。
こどもたちはまだまだ小さく、転がるように走って笑って遊んでいる、2007年1月の風景。それは、去年までは出てこなかったシーンでした。
なるほど、“懐かしい記憶のフレッシュさ”(妙な言い方だけど)って、年を重ねると変化するんだな、と感じました。卒業という懐かしさはもう、水仙の匂いと紐づけられて固定されているものだと思っていたのに、この記憶はわたしの中でかなり色褪せてきたみたい。今年になってとうとうカレンダーがペロンとめくれて、幼少期のこどもがいる懐かしさに包まれるようになってきた。面白い現象です。
そして、この記憶もなかなかに切ないものです。

そうそう、花つながりで嬉しかったことが、もうひとつ。
うちの梅干し、梅酒、梅ジュース、梅シロップ、梅ジャムなどを担ってくれていた梅の木2本が、どちらも台風で根元から折れて倒れてしまって「もう今年からは梅なし人生だ」と思っていたのですが、一部の枝はまだ生きていたことが分かりました。見るのが辛いから抜根してしまおうかと思っていたけれど、しなくてよかった!!
いつも「梅は収穫も仕込みもめんどくさいんだよねー」とぶつくさ言っていたのに、なくなると思うと急に寂しくなり、生き残っていると知ればとても愛しく感じる。我ながら現金なものです。

これほど梅のつぼみを愛しいと感じたことはありません。

今年もたくさん、実をつけてくれるかなあ。

 

さて、3番目の走りたい欲求ですが、これは“お正月のデブ活を、なかったことにしたい”というのが正直な理由です。ランニングは地味に続けていていますが、冬休みに家族全員が家にいるとなぜか家事の量が通常より増えてダラダラと終わらず、ランニングの時間を食ってしまうみたい。夜一息ついた時に「ハー疲れた」とソファにうずもれて「あーあ、今日も走れなかった」と言うと、「疲れたなら走らなきゃいいじゃない」とかわいげのないツッコミが入るしね。

とても不思議なことに、南房総では家族が家事分担をしてくれるんです。強制したことなどないのですが、何となく「この家では、やれることをやれる人がやる」という文化が定着していて、わたしの手がスッとあくことが多い。こんな素敵な習慣、東京の家にもぜひ導入したいのに、まるで国が違うかのように文化も違うまま。なんでだろ!

日中はなんだかんだ野良仕事で忙しく、体を使うから当然お腹は減って夜もがっつり食べます。三が日を過ぎるとおせちではない味が食べたくなり、館山で行きつけのインド料理『カマル』に向かいました。居酒屋さんの居抜きでつくったらしい、畳でナンとカレーを食べる不思議空間なのですが、味はとてもいい。しかしすべてのメニューがカロリー爆弾。
完食するやいなや、体が危険信号を発します。「やばい!やばい!走れ!」と。

それで、館山のカマルから我が家まで12キロを走ることにしました。ランニングシューズを履いていたのは幸いなこと。「お腹いっぱいでよく走れるね」と言われますが、お正月に大きくなった胃は食べたっていっぱいなんかになっておらず、体は切に運動を欲しています。うずうず。

お店を出てすぐ、走り始めました。

間抜けな走り出し。急場なのでジーンズという体たらく。

間抜けな走り出し。急場なのでジーンズという体たらく。

お店があるのは住宅地、そこから国道に出て、歩道をせっせと走ります。田舎らしさがあるわけでもなく、面白味もへったくれもない道中ですが、南房総では驚くほど“歩かない”暮らしをしているので、歩いて見るまちの風景はわりと新鮮にうつります。へえ、ユニクロからオートバックスまでって走るとこれくらいなんだね、といった発見もある。なんて地味な発見だろう。

ただ、歩道がまったくない細い車道もけっこうあり、これは走るのには向いていません。なのでちょいちょい車でピックアップしてもらって危険は回避。走りやすい場所につくと降車して走る。道の複雑な奥まった農道は、イノシシ遭遇のリスクもあるので車にガイドしてもらい、ずいっと先を行くテールランプを頼りに走る。
どんな貴族だ?という方法ですが、これがわたしのお年玉ということで勘弁してください。きっともうやってもらえません。

真っ暗な農道では、月明かりで、道に自分の影が落ちます。
ランナーは立ち止まるのを嫌がると言いますが、キンと澄み渡る夜空を見上げて、わあ、とため息をつかずにはいられない。
今、という時がものすごく長い歴史の先っちょの点に感じられて、自分がものすごく小さく感じられて、このまま闇夜に溶けてもいいと思う瞬間です。

夜空を見上げるとどうしてもオリオン座を探してしまうクセ。

夜空を見上げるとどうしてもオリオン座を探してしまう小学生からの癖。

身体は温まり、外は冷たく、空気は美味しくて、本当に気持ちがいいです。
このランの快感は大人でないと分からないものなのだろうか?
こどもたちに「ねえ、走ると気持ちがいいよ!」と誘ってみても、ただ苦しいだけのランニングを喜んでやっているこの人はおかしいんじゃないか、という目で見られるのが残念です。

ちなみに夕日や富士山も同様です。長々と見ていると、明らかに飽きたという顔をされます。

ちなみに夕日や富士山も同様です。長々と見ていると、明らかに飽きたという顔をされます。

年明けからしょぼい話を連ねて恐縮ですが、人生の傍らに南房総のある暮らしは、こうして日々の居心地を地味に底上げしてくれます。

大興奮の出来事なんか、そうそうない。
心臓がコトンと跳ねるくらいの小興奮がちりばめられている程度です。
でも、だから、続くんだろうなと思います。ちょいちょいニヤニヤしながら生きたいもんでね。

そんなわけで、今年も皆さま、お見限りなきよう。
週末にふと暇ができたりしたら、都心から1時間半で到達する南房総にぜひ遊びにいらしてください。

 

※本記事は、馬場未織氏の知識と経験にもとづくもので、わかりやすく丁寧なご説明を心がけておりますが、内容について東急リゾートが保証するものではございません。
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