今日は8月某日、東京。Zoom会議が終わり、野暮用で外に出ると、「ぼあ~~~」という音が聞こえそうな熱い空気が肌にまとわりついてきます。毎日暑いですね。日なたでは刃物のような光線が肌を突き刺してくるので、「そんなに色黒なのに必要?」と笑われようとも日傘を広げて身を守る今日この頃です。
オリンピックは終わってみればあっという間で、緊急事態宣言だけエンドレスの2021年夏。
みなさん、お元気ですか?
わたしは6月半ばから調子が悪くなり、長くへばっていました。
最初にちょっとした体調不良が続き、頭のキレがないため当然仕事のキレもなくて不本意なことが重なり、そうすると胃が痛くなって体調もさらに落ち、もうこのまま浮かぶことはないかもしれないとも思いました。参ったね。いつもは比較的能天気に生きていますが、意外とあっさりドツボにハマるものです。
家族や友人からは「忙しすぎるんだよ、ゆっくり休んで」といたわられましたが、ゆっくり休んだら治るっていうかんじもしなくて。いろいろダウンしている最中だと、悪いのは身体なのか心なのか頭なのか、はたまた全部なのか、分からなくなってくるんですよね。それに伴って自己肯定感までダダ下がり。
念のため血液検査をしたらどこも悪くなく、それも何だかがっかり。体調不良のせいにもできないという意味でね。
ということは、床に臥せっていても埒が明かないわけだ。
何とか小さなきっかけをつくって這い上がっていかなくちゃならない。
そうしてヨタヨタとあたりを見回した時、頼れる存在がそばにありました。
新鮮味や高揚感は、もはやそんなにないヤツ。
でも「もーつかれたよー」と愚痴みたいな弱音を吐いてもいいくらい親しいヤツ。
それは、15年来付き合いのある、南房総の里山です。
「里山で整う」ことができた夏を振り返ります。
■もうひとつの家へ
東京は、弱った心身をリカバリーするのが得意ではない場所かもしれません。
コンクリートを歩けば足の裏が疲れるし、ぼーっと座って疲れを癒すこともできない。目に見えるのは目的に向かってザクザクあるく人間ばかりで取り残され感が半端なく、ただ所在なさが募ります。
わたしにとって東京は故郷だし、いつもはなんとも思わないのにね。
そんなわけで東京から南房総へと、何度も逃げました。
こういう「行きつけ」がもしなかったら、わたしはどこに行けばよかったか……うまく思いつかなかったと思います。気分転換をするための新しい環境ではなく、むしろ親しみ深さも合わせて必要だったからです。
南房総にたどり着き、人が少なく緑の多い里山にしばらく身体を浸していると、狂った調子が徐々に冷静に戻っていき、深呼吸ができるようになってきます。空間が広いことと、人間由来のものがまわりに物理的に少ないことの効力は、弱ってみないと意外と分からないものですね。リフレッシュより深度のある、治癒、に近い感覚です。
ただ、都会の喧騒から離れるといっても、静かにはならない。里山には別のうるささがありますから。とくに夏は工事現場級。「ミーンミンミンミーーーーーン」「じーじーじー」「カナカナカナカナカナカナ」といろんなセミの声がシャワーのように降りかかります。
わたしはこれが本当に好き。
ネガティブな思考を洗い流してくれる音です。
物理的に身体を避難させること。
コロナ禍ではなかなかできないですよね。
でも、逃げるのは、最強の方法だと思います。とにかく安心するところへ逃げるんです。
■虫を見る
一息ついたあと、うろうろしながら近いところに注意を寄せると、大体そのへんに虫を見つけることができます。爬虫類もそこそこいます。「田舎はヒトが少ないのに寂しくない」のは、ヒト以外がたくさんいるからだと思うんですよね。話し声はしないのに、生きものの気配はとても濃い。
そしてこれらを観察していると、何だかみなさん用あり気なんです。捕食するためにがんばってるクモもいれば、クモを捕食するハチもいる。旋回する蝶も忙しそうだし、「見つかったか!」と慌てて逃げるトカゲも健気です。
みなさん、生きるために、必死に何かをやっている。
人間だけが「意味のあること」をやっていて、その他の生き物は意味がないなんて、誰が決めたんだ。どっちにしろ意味なんかないんだよなと気づきます。命をつなぐために生きることと、しばらくしたら死ぬことが、どっちもミッション。それだけ。
人間だってまあ同じです。なにかうまくいったら嬉しいし、うまくいかないと落ち込むけれど、いずれ「生きて死ぬ」につながっているだけ。その一部を拡大解釈して重たく受け止めて、悩んだり、疲労したりして、東京から南房総までやってきて一生懸命心身を癒したりするわけですが、おそらく重たいセミを一生懸命運んでいて疲れたアリとたいして変わらないのだと思います。
虫を観察していると、ありありとそれに気づきます。笑。
うまくいくとそこで憑き物が落ち、東京から出発した時の疲れが5割くらい消失します。なのでわたしがじーっと虫を見ている姿を見かけたら、生きながらえるための大仕事をしていると思ってください。
そうそう、人間という存在を相対視しようとするなら一般的には「満天の星空を見上げる」「母なる海を見渡す」などの行動になるでしょう。南房総の空は美しく、いい海岸もたくさんありますからね!
虫はマニア用。
■好きな人と話す
「こいでさーん」と玄関前から声をかけると「おーう」と奥から出てきてくれる、ご近所の小出さん。まだまだマスク+距離が必要ですが、それでも好きな人と会えると、心からホッとします。
この関係を取り戻したくて、ワクチン接種2回、なるはやで済ませました。
小出さんのことを「地元の人」とか「南房総のご近所さん」などと紹介するたびに、最近はちょっと窮屈な気持ちになります。だって、別に場所は関係ないから。今のわたしにとって小出さんはただの大事な友人、ただの好きな人だからです。
だからのこのこ小出さんの顔を見に行きます。
深刻な相談事などはなく、飼い犬のコタロウをかわいがったりブルーベリーを摘ませてもらったりする程度。「ちょっと最近調子が悪くて」とつぶやくと「あーんだそりゃ、忙しすぎるんでねぇの?大事にしなさいよ。コタロウもこないだから耳だれが止まらねぇから病院通いしててね。もう若くねぇしな」「おおコタロウ、わたしと同じで若くない」「ほんとだな、あははは」と、まったくの与太話です。
それでだいぶ元気が出ます。
虫たちに救われる部分とは別の部分が、好きな人によって救われるのです。
■働く
調子が戻ってきてほっとしていた8月頭、お盆前の草刈りの共同作業がありました。去年はコロナ禍の手探り状態ということもあり、東京から来るわたしは作業免除でしたから、「今回は一緒に」と言われて何とも言えず嬉しかったです。
ただ道際の草刈りをして、休憩中に「あっちぃなー!」とお茶を飲み、また精を出す、といういつもの作業。もうどんなお喋りをしたかも思い出せないのですが、誰かが何か軽口を叩いてみんなで「あははは」と笑った時、幸せだなあ、と思ったことだけ強く覚えています。
今回は荒れた裏山の道までがんばり、ピカピカに綺麗になったとは言えないうちにお昼がきて作業を切り上げました。「まあ、まあ、こんなもんでいいか」と。うーんもうちょっとやりたいな、とわたしが心残りな顔をしていたのか、引き上げながら小出さんは朗らかに「振り返らずにまいりましょう」と言うので思わず笑ってしまいました。
やりきれないこと、納得いかないこと、そんなものはちょっとずつ積み残しになるけれど、完璧主義を貫いてとどまらない方がいい時もある。やるだけやったら、ちゃんと休んで、また次の機会に続きをすればいい。
東日本大震災の1か月後にようやく南房総に行けた時も、心の底から救われた思いがしましたが、今回もそれに近かった。「里山で整う」弱り果てた心身を受け止めてくれる場所があるとピンチだってドンと来い!です。
ウソです。ヤです。
今思えば、コロナ禍でもたいして影響を受けていないと思い込んでいたわたしでしたが、今頃になってダメージが出てきたのかもしれないな、と感じています。いつもどこか不安を抱えた状態で、自粛しながら心身の健康を保つというのは、なかなかに難しい。しばらくチャレンジは続きますね。
みなさんも、健康に過ごされますよう。