先日突然、気温が下がりましたね。半そでからセーターへ。
気候変動の影響か、秋らしい秋の期間が減っていて、夏から冬に急激にスライドするように感じますね。
みなさん、お元気ですか?
わたしは何とか元気にしています。
ここのところハードな日々で疲労困憊といったところですが、毎日たくさん食べているので大丈夫。すり減った気力体力をカロリーで補っているようなかんじです。
それにしても、秋はなんでこうも食欲増進するんでしょうね。何でも美味しそうに見えるし、実際美味しい。普段わたしは甘いものが好きな方ではないのに、大福?焼き芋?マリトッツォ!と身体がスイーツを欲しはじめるのでびっくりします。
この不条理なまでの食欲は何だろうと調べてみたら、寒さ対策で脂肪をつけようとする本能だけでなく、日照時間が短くなっていくことにも関係しているようです。日照時間が短くなればセロトニンというホルモンが減り、その分泌を増やす糖質やたんぱく質を摂取したがる、という原理だそう。
いやあ、わたしの身体は知らぬ間に、ヒガンバナみたいに日照時間を感知していたわけだ。
甘いものが好きじゃない自分が、甘いものに反応する。
まるで、身体の内側から「自分はこんな人間」という認識が破壊されていくかのようです。
季節のせいだけでなく、人の嗜好は変化をしていくんですよね。
激辛党だったはずが最近は辛いものを見ても欲情しなくなったり、圧倒的コーヒー派だったのに紅茶も飲みたいと思うようになったり。あ、パンも好きになりました。
自分で自分にびっくりです。まるで他者との出会いのように新鮮な発見があります。
意外な自分に遭遇する楽しみは、ひょんなことからも起こります。
たとえば、これまでわたしはマニュキュアはしてこなかったんですね。
若い頃からあるナゾの手湿疹でいつもひび割れて痛痒い上に、野良仕事で爪の間に泥が入る、植物の灰汁で染色される、節くれだつなど「労働者の手」になっていったもんで、爪は短く切り揃えるのみでした。芸術的なネイルの人を見るとウットリ羨望しつつ、どこかで「爪に色を塗る必要なんてないよ」と思っていました。
似合わない、を、必要ない、にすり替えていったのかもしれません。
それが、ある日。
ギターを弾いていた高校2年の娘の指先が美しいグレーになっていることに気づきました。
「かわいい、モルタルみたい」と言ったら怒ってましたけど。褒めたんですが。彼女はいくつもマニュキュアを持っていて「けっこう前から塗ってたよ」とのことだけれども知りませんでした。自分が塗らないと意識がいかないんですね。世の男性陣の「ネイルに無関心」と同根ですね。
で、リビングのテーブルに出しっぱなしになっていた彼女のマニュキュアを見ていたら、ふと、わたしも塗ってみたくなりました。
農夫のような手は変わらないけれど、妙に気分が上がってしまった。今まで道具だとしか思っていなかった自分の手を、改めてしげしげ眺めました。
長らくコンプレックスでもあったこの手。週末田舎暮らしを始めてからは「毎日がんばってる手だな」と認められるようになって。それで今回、マニュキュアを塗ってみたら、「いい年重ねてきたな」と思えました。
こんな風情の手も、アリだな、と。
その晩は、ハンドクリームをすこし丁寧に塗ってあげました。
ゴツゴツの手先に綺麗な色が乗ってても、いいじゃない?
週末には野良仕事ですぐに剥げちゃうんだろうけれど、まあ、いいじゃない?
「野良仕事する人は、野良仕事する人らしく」と自らを狭めないで、好奇心にまかせていく方が人生面白くなるだろうし。
娘にラメの爪を見せたら、「わたしのを使わないでよ。自分で買いなよ」と言われました。
こんなたわいもない発見は、他にもあります。
本人はつとめてフラットな目でものを見ているつもりでも、知らないうちに自分でバイアスをかけて見ていることって、ありますよね。それに気づいた時のことです。
うちの2軒先のご近所さんに、ゲンゴロウのおばあちゃんがいます。
南房総ではしばしば彼女のところに顔を出して与太話をします。何ともいえずキュートな人柄で、野菜づくりの達人で、腰が低くて、大好きです。
で、わたしはいつも、一人暮らしの彼女のことを気にするクセがついています。
こないだ転んだって言ってたけどまだ痛いかな?とか、コロナのワクチンの予約大丈夫かな?とか、台風が来ているけれど不安じゃないかな?とか。週末だけしかいないわたしたちに何ができるというわけではないし、余計なお世話なわけですが。
ひとりで困っていないかなあと考えてしまうのです。
どうもわたしの中には、「一人暮らしのおばあちゃん」は「弱い」「助けてあげなきゃならない」存在だという典型的なイメージがこびりついているんでしょうね。握力が弱ってオロナミンCの蓋が開けられないんですよ、なんて話を聞いているもんだから、余計にそう思っているところがある。
ところがどっこい。彼女は実は、本当に力強い。
重たい芋がたくさん入ったバケツを引きずって移動させたり、泥のついた野菜を手際よくワシワシ洗ってジャッジャッジャッと水を切って「重いから車まで持っていきますよ」と気遣ってくださる。
いやいや自分で運べますから、と伝えるより先に、もう一輪車を出している。思ったこととやることの直結さ加減に、頭が下がります。
自分の力の出る状態をつくるためにどういう道具を使って、どう動けばいいかを、身体が熟知しているのです。
畑で腰を折って作業をしている姿を遠くから見ていると、「ああ、お年召しているのに立派だな、疲れないかな」なんてウッカリ典型的ないたわりの感情を持ってしまうんですが、近づいて一緒に作業をしようもんなら、雑草を抜くスピードはわたしより早い。「年寄りで、みなさんのお役に立てなくて」なんて言葉に騙されちゃいけません。
彼女とは長らくごく当たり障りのない世間話しかしていなかったのですが、一昨年の台風直後からぐっと親しくなりました。
すると、「田舎の・かわいらしい・あったかい・優しいおばあちゃん」という絵本の登場人物のように見えていた彼女が、ちょいちょいピリ辛なトークをするようになってきました。
「息子はね、コロナだーうつすだーなんだーかんだー言って、まあ帰ってきやァせんですよ。都合のいい口実ができてよかったですわねぇ」と皮肉を口走ってみたり。
(息子さんこないだ帰ってきていたじゃないですか!笑)
「あスこのかずさんはね、いい人間なの。みーんなに優しいでしょう。あんな人見たことない。わたしはね、いい人間じゃあないんです。人の悪口ばーっかり思ったり言ったりね。わたしはね、悪い人間。あとね、あの人。あ、いわないでおこ。これはいわないでおこ」と、目をきょろんとしたり。
(答えに窮した挙句)「あはは、おばあちゃん優しくて大好きですよ!」と返すと、
「まぁ、わかんないでしょうね。わかんなくって、いいんですよ。わかんない方がいいこともあるの。ふふふ」と、さらに腰を折ってちいちゃくなって、いたずらっ子のような顔で笑っていました。
あー。たまらない。ギャップ萌えです。
おとぎ話に出てくるようなかわいいおばあちゃんが、実は「悪い人間」ってね。
そんな話をきくと、こっちも「実はわたしも悪い人間でしてね、、」と変化球を投げてみたくなります。
こうなってくると、豊かな畑の真ん中で、悪い人間2人がニヤニヤと話し出す日も近そうです。
のどかな景色だからって、トークものどかとは限らないからね。
・・・
考えてみると、二拠点生活は、意外なことを発見する「眼差しを、養う暮らし」だと言えそうです。
思い込みをはずし、なるべくまっさらな目で世界を見ていく。固定された自分を、ちょっとだけずらして生きてみる。すると、「そうなの?知らなかった、面白い!」という発見との出会いは累進的に増えていくんです。
面白がることが上手になる。
常識やプライドなどに振り回されるのではなく、みずみずしい感性に振り回されて生きていきたいですからね。
コロナが落ち着いてきて、旅行に出かける方もいらっしゃるのではないでしょうか。
南房総にもぜひ、足を延ばしてみてください。
なかなか無理だという方は、いつでもどこでもできる「意外な自分」と出会うインナートラベルを、ぜひ!
本当に面白いこととは、与えられるものではなく、自分で生み出すものだと思うのです。