ここのところ、週末が雨。雨。雨マーク。
秋晴れの秋はどこへやら。まったく、がっかりポンです。
大変に身勝手だとは知りながら、できれば週末は全部晴れてほしい!と願い続けて早9年。出かける前に白いシャツにコーヒーこぼしちゃうとか目の前で電車のドアが閉まっちゃうとか楽しみにして行ったレストランが改装休業中とか、他の小さな不運は引き受けますから神様週末はどうか晴れってことで~と祈りながら、いつも天気予報とにらめっこしています。
願いは届いたり届かなかったりなのですが、先週末も先々週末も、馬場さんちには天気の神様は寄りつかなかった模様。
実は、我が家には「南房総行きを、2週末以上空けない」という暗黙のルールがあります。
なぜならば、土地や家はけっこうナマモノで、人がいない状態が続くと明らかに“荒れる”からです。冬場はまだしも、夏は家の空気が動かないと途端にカビっぽくなりますし、雑草や竹や笹がどっと伸びます。また季節によらず、人気のない土地には確実に、例のヤツらがやってきて領土拡大を図るのです。そうです、イノシシとかハクビシンとかイノシシとかキョンとかイノシシとかタヌキとかイノシシとかウサギとかイノシシとか。ほんとにもうね!
まあ動物とシェアハウスしてると思うようにしていますけどね。実際には、ほじくり返された土地や無残な畑を修復するのに手間も心も費やされるので、「ここはあたしんち」という証は常に示し続けている必要があります。
ただ、雨だと野良仕事ができないため、交通費もかかるし、やめておこうかな、となるケースが多いのが現実です。
さて、そんなワケで週末東京暮らしが続いたため、何とか時間を都合して、平日に南房総の家に行ってきました。ぶらっとひとりで行くなんて、実は9年間で初めてかもしれない……こどもたちを学校に送り出し、すぐ車に飛び乗った次第。
いつもは家族とぺちゃくちゃ話しながらの道中ですが、ひとりだと自分の好きな音楽をかけ放題。アクアラインからキラキラ光る海を見やりつつ、40過ぎたおばさん、車内で絶唱。
恍惚の時間は一瞬で過ぎ、南房総の家にたどり着くと、そこには毎度と変わらぬ平和な風景が広がっていました。
いや、何百回来ていても、この家に到着する時はいつもちょっと緊張するんです。わたしたちのいない数日間に何事か起きてなかったか?と。車を降り、斜面の崩れや倒木などなく、家の中に動物含む侵入者の形跡もないと、やれやれ、とようやく一息。(今まで、いろいろありましたからね。)
それからすぐに畑の様子を見に行きます。
どなたさまにも自慢できない大変いい加減な畑とはいえ、畑は大事なんです。
この畑は2年前、ほとんどの作物を我がシェアハウスの平日利用者どもに食い荒らされてからというもの、耕耘後には動物避けネットで畑を囲うようにしています。
ということで悲劇はないと思うんだけれど……塩梅はどうかな?
やー、順調じゃないか!嬉しい限りです。
この時期に間引いた葉っぱは柔らかいので、そのままナマでぱりぱりと食べられます。
畑仕事をしているとどうにもつまみ食いしたくなり、いつもムシャムシャと葉っぱを食べながらの作業となります。衛生的にはどうかと思うので、ここだけの話ね。
そしてこっちも。
やー、もうふっくらしてるじゃないか!
カブの成長は驚くほど早いです。成長が早いということは、組織がゆるいということ。水っぽくて皮がぱんッと張り、かじるととても柔らかい。そして甘い。乙女の柔肌のようにすべすべで、手に持つとちょっとドキリとします。
それから、長丁場のこいつね。
ソラマメ、今年は何とか育っていますね。食べられるのは5月末ですから、これから半年、ここでじっくり実をつけます。
去年は何者かに種をかじられてしまって、数本しか育ちませんでした。ソラマメの収穫はなぜか他のどの作物にも増して喜びが大きいため、芽が出ようとしたまま真っ黒に枯れてしまった種を見てとても悲しい気持ちになったものでした。
しかしそれはあの、畑に住んでた野ウサギの仕業だと思うんだよな……
それにしてもうちの畑、畑なのかお花畑なのか分からない状態です。気休めに雑草取りをしますが、雑草は雑草で美しいよなあ、とかぶつくさ言ったりして。
わたしたちがいようがいまいが、粛々と、穏やかに、ここで成長してくれている野菜たち。ありがたい話です。うちの近くの道の駅は『土のめぐみ館』というのですが、まさにわたしたちの体はこの、土のめぐみからできているんだよなあ。
動物と違って人間サマは賢くて、いろいろつくれるんだぞ!という感覚なんて、しゅるしゅるしぼんでいきます。だいたい、生きるためのあれもこれも自然に頼りっきりなんだからさ、人間社会で“オリジナリティ”だの“クリエイティビティ”だのにこだわるなんて、ホントは笑っちゃうようなことだよな。
実は先日、久しぶりに実家に帰った時に「これがこないだ収穫した小松菜、これが今年の梅酒の追加ね」といろいろ渡したら、母親から「あなた若いときはいつも、真っ黒な服を着て、建築やアートや文学にしか興味がなかった人だったのにね。人間って変わるものね」と、つくづく言われたんです。
いや、今でも建築やアートや文学にも大いに興味がありますって。むしろその延長上に興味を拡大しているかんじで、自分の中では繋がっているのです。でも母親から見れば、育てていた頃のシラッとした黒ずくめの娘と、毎回野菜を抱えてやってくる現在の娘が違いすぎて、いまだに驚きつづけているのかもしれません。
……そうして畑仕事がひと段落。
真っ昼間からデッキで昼寝とか、優雅にやってやろうかと思いました。せっかくひとりだし。
でも、木々が風にゆれる音を聞いていたら、裏山をぶらぶらと歩きたくなりました。
うちの裏山は、とりたてて整備されていません。山に人が入る用事など、今はほとんどありませんから。それでも昔の人がつくった杣道(そまみち)がついています。薪や炭、茅などを調達する場所として、山が生活に密着していた頃はみんなが使っていた道です。だから、その入り口さえ分かっていれば、中を歩くことができます。
ま、歩くっていうか、適宜しがみついたり、お尻で滑ったりもしますけどね。
普段は「農家の裏山」なんて、まるで舞台の書き割りみたいに、田舎の背景でしかないものですよね。けれどもひとたび中に足を踏み入れてみると、そこにはまったく自意識のない自然があり、ハッとするような出会いをもたらしてくれます。
杣道は、今では獣の道。
イノシシがタケノコをほじくった大穴や木の根に足をとられないように注意しながら歩きます。
たとえばこの倒木は以前からあるんですが、どうにも片付けようがない。
谷に向かってガクンと落ちていて、ずっと見ていた突然お尻のあたりがゾワゾワしてきます。
この谷が、けっこう深い。谷を見やりながらさらにのぼっていくと、途中で杣道は本当に獣道となり、手を使わなければ登れないほど急勾配になります。
ああ、もっと軽やかに登れたらな。人間のサイズであること、自分の手足が愚鈍なことがもどかしくなってきます。そう、ネコくらいの大きさになって山の中を駆け巡りたい。木のてっぺんにものぼりたい。
そういえば、わたしはヤングな頃、山登りがそんなに好きじゃありませんでした。
親に連れていかれてもめんどくさいだけで、何が楽しいのかよくわかんない。「ほら、きれいだよ」と紅葉した葉を指さされても、ふーん……とそれほど心が動かなかった。本を読むと涙が溢れるほど心が動くのに、自然の機微にはそれほど、心が動かなかった。
ぽちりと落ちた実や、
青々と石を覆うコケや、
まだ若い松ぼっくり、
鮮やかな紫色のノササゲの実、
そんなものたちが目で見えたとしても、心にズキュンと飛び込んではこなかったろうなーと思います。
だってその頃は、自分のことだけで目一杯忙しかったから。頭も心も。
歳とるっていうのも、悪くないもんですね。
ある種の感性は、若い頃よりビンビンなのよ。
ビンビンになってくるのよ。
そう考えると、田舎暮らしを本当に楽しめる“田舎暮らし適齢期”が、あるのかもなと思えてきます。
第一期は「これなに?あれなに?」と全方向に感性が開いている、幼い頃。
そして第二期は、世界の中で生かされている自分がちょっと俯瞰して見えるようになってからの、オトナ以上。
つまり、子が第一期、親が第二期にある子育て中の田舎暮らしは、適齢期どストライクということです。わたしたち家族が運命に誘われるように二地域居住を始めたのも、実は、必然のなせる技だったりしてね。
ちなみにうちは、今までは家族全員が“田舎暮らし適齢期”でありましたが、徐々に子らが第一期を抜けていくような時期に突入しています。それに比してわたしは、足腰の立つ限りは適齢期が続きそうなんですよね。
実際は、どうなっていくかな。未来は、今までの経験では知り得ないことばっかりですから、人生もうあと2、3展開くらいあるのかもしれず。いつまで生きても、今後ってやつは見通しが立ちませんね!
桑原桑原。