毎日暑いんだか寒いんだか。何を着ていいか分からないこの季節が、またやってきましたね。
朝になると「服がなーい!」とみんなでわめく我が家であります。毎年梅雨は来るんだから何か用意しておけばいいものを。
みなさま、お元気ですか?
ところで、最近わたしは週末が待ち遠しくてたまりません。
南房総に行きた過ぎます。
なんなら1拠点生活になりたい。
その理由は、南房総で会いたい存在ができたからです。
名乗るにはまだ日が浅くて口幅(くちはば)ったいんですが。勇気を出して言ってみますね。
ニホンミツバチの養蜂家になりました!
今、我が家の庭先には、ニホンミツバチが暮らしています。
長年の念願が叶ってしまいました。
2ヶ月ほど前、以前このコラムでもご紹介した養蜂の師匠・もっちゃんから「本気で養蜂をしたいならうちの分蜂群をあげますよ」と連絡があり、驚きながらも反射的に「本気です」と返信したのがきっかけです。
巣箱は、以前から持っていました。
東京でニホンミツバチを飼おうとした建築家の友人から「家に置いといたら奥さんに怒られちゃったから南房総に引き取ってもらえる?」と譲られたものがあって。畑の脇にてどなたか入居されるのをずっと待っていたのですが、誰も来てくれなくて空き家のまま数年経っていました。
その我が巣箱に、もっちゃんの家で分蜂した1群を入れ、うちの土地に引っ越しさせた次第。
(ちなみに“分蜂”というのは、巣の中で新女王バチが生まれる直前に、その母親の女王蜂が働き蜂の約半数を連れて巣を飛び出し、新たな場所に巣をつくること。基本ひとつの巣には「1匹の女王蜂率いる1群」しか住めないからです。)
はじめは正直心の準備が追いつかなくて「うちで大丈夫だろうか、、」と思わなくもなかったです。
巣箱をもらい、蜂さえももらい、なんだか受動的にニホンミツバチを飼い始める環境ができてしまったもんだから。
でもね、そういうのは一瞬で吹き飛びました。ニホンミツバチが家にいるという状況が想像以上に幸せなもので、不安とかどうでもよくなった。こんなに自分に合っていることはないと思うほど、今はただただ養蜂に心躍らせています。
もっちゃんに「そのうち巣箱の前でお茶飲んだり食事したりするようになるよ」と言われ、それはいいなと思って巣箱の近くにベンチを置いて、“お花見” ならぬ “お蜂見” をやってみたのですが、ベンチから眺めていても蜂欲が満たされずどんどん近寄ってしまい、結局ただの観察に。
実はニホンミツバチを飼い始めたんだなんて話をウッカリ友人にすると、だいたい「ハチミツとれた?」「ハチミツ身体にいいしね」などと言われるんですよね。
それがなんだか、わたしの感覚とずれているんです。
で、「ハチミツはまだとれないよ。見てるだけでも楽しいよ」と正直に伝えても「へえ…」と興味を失った顔をされます。まあふつうに、牛乳を搾るために牛を飼う。絹糸をとるために蚕を飼う。などと生産目的なのが養蜂ですからね。
まだ養蜂家になれていない、愛蜂家でしかないわたしにとっては、蜂が蜂のために蜜を蓄えている状態を想像するだけで幸せなんですがね。そこは共感されなくて物寂しいです。
そういえば、かつて南房総で物件探しをしていた時、不動産屋さんに行くと受付の方に「今社長は養蜂の用事で席を外していて」と言われ、だいぶ待たされたことがあったんですよね。その頃は(養蜂?刺されそうでヤな仕事だな、ハチミツってよほど歩留まりのいい仕事なのかな)という貧しいことを思ったんでした。
16~17年経ったらわたしが養蜂に夢中になるだなんて、あの頃の誰が想像したか!
今では「南房総に行くとニホンミツバチがいる」のではなく「ニホンミツバチに会いに南房総に行く」くらいモチベの中核になっています。これからビギナーの興奮が差し引かれていくとしても、沼にハマる方でプラマイプラスになるんじゃないかな。。
今のところ、養蜂って言っても特に何かをしているわけではありません。
アカリンダニ除けのメントールを巣箱に置くくらい。
あとは、息するのも忘れるくらいじーっと見ているだけです。
そうすると、毎回いろいろなことに気づきます。
それが、めっちゃ楽しい。
なんなら理科の観察カードみたいに「きづいたこと」を書いて廊下に貼っときたいくらい。
巣から飛び立つ前に、触覚を前脚でくるっと撫でて整えてから出ていくこととか。
脚に花粉玉をつけて帰ってくる子が多いのは午前中なんだよな、とか。
出たり入ったりする蜂がいる中、巣穴のまわりから去らないでずっとウロウロしている子がいるのも気になります。これは門番なんですって。で、夕方になると散って働いていたみなさんがどんどん帰ってきて、門番が全員確認している姿も泣けます。
ニホンミツバチはセイヨウミツバチに比べて攻撃性が弱いことや、集まると熱を発することも、身を持って知りました。分蜂時にできた蜂玉を前にしたとき、もっちゃんに「そーっと指を入れてみて」と言われて、おそるおそるやってみたから。
さらに巣の中を内検すると、生命の神秘をダイレクトに感じずにはいられません。
なぜ彼らはこんなにも美しい巣板を、こんなにもスピーディにつくりあげてしまうんだろう?
ひとつの群がひとつの生命体のようにシステマティックに運営される、その見事な仕組みをどう伝え繋いでいるんだろう?
観察って、何よりも幸せで、非生産的な時間だなあと思います。
この4月から週末の貴重な時間をどれだけニホンミツバチの観察に費やしてきたか。見れば見るほど分からないことが出てきて、もっちゃんに聞いたり、調べたり。単純に好きすぎて知りたくなるのです。「なるほど、そうなのか」と新しいことを発見するごとに感動し、ひとりで胸いっぱいになるおばさん。
この歳にして、生きもの好きの小学生男子になっちまったか?
思えば昔も生きもの好きの息子に付き合って観察をよくしていました。それも同じように楽しかったけれど、ニホンミツバは純粋に自分のためにやっているからか、沼の深さが違う気がします。
さらに言うと、「1回見る」のと「何回か見る」のと「定点観測する」のとでは面白さの深度がぜんぜん違うんですよね。
1回見るだけだと感知できないことが、同じ場所で回数を重ねるたびに気づけるようになってくる。だから、以前のコラムでもっちゃんの家でニホンミツバチを見せてもらった時と、今わたしに見えるものとは、解像度がまったく違うと思います。受信者の感度によって、風景の意味は変わるから。
そうして過ごしていると、聴覚世界も変わってきます。ニホンミツバチの「ぶ~~~ん」という羽音を違う虫の羽音と聞き分けられるようになり、これが周りで聞こえるととても好意的な気持ちが湧き上がり「どこにいる?」と目が探しちゃう。彼らが頑張っている姿を一目でも多く見たくてね。
そんなわけでうちの家族は最近、そこらの野良を歩く時にコンタクトレンズを探しているような姿勢になっていることが多いです。
もちろん、以前は違いましたよ。
虫好きのわたしでさえ、羽音は全般的に苦手でした。
「ぶ~んとくるものは刺す、怖い」という感覚が染み付いていますから。
そうした感度であれば、当然セイヨウミツバチもニホンミツバチもスズメバチも全部いっしょくたに遠ざけたくなるでしょう。実際、【ミツバチ、巣】というワードを検索エンジンにかけると、巣の駆除業者の広告が真っ先に出てきます。
そりゃ、怖そうな虫は全部駆除すりゃ安心かもしれません。
でも、なるべくですね、「人間だけが完璧安心」という一択でなく、「虫たちともそこそこ共存」の方法をみんなで模索していこうよ、と思うわけです。
たとえば、ネオニコチノイド系の農薬はミツバチの神経系に作用して帰巣できなくなり大量死する、やめた方がいい、といったことは知識として大事だし訴えていきたいとも思います。でももし本当に訴えるなら、記事を読んでもらうよりニホンミツバチと暮らしてもらう方がより伝わるんじゃないかな?と思えてきます。
知識と体感が一体になって、ようやく腹落ちすることがありますからね。
さて。
気が付くと、そんなこんなで1時間も2時間も巣箱の前にいる週末。
草も竹も伸び放題で刈り払い忙しいこの時期に、観察と野良仕事と両立させるのは難儀なこっちゃ!
でもね。
待っていてくれる者がいるって、幸せですね。
彼らはおかえりとも待ってたよとも言わないし、思ってもいませんけどね。
わたしは彼らに会いたくて会いたくて、想いを募らせて飛んでいくんです。