暮らし術

東京・軽井沢・福井の3拠点生活を始めて移動が日常になり、「移動とはいったいなんだろう」というちょっと哲学的な命題に思いをめぐらすようになりました。そもそもなぜ人は移動することに喜びを感じるのか。なぜ昔から、人は移動の熱情に突き動かされてきたのか。

人類史を振り返れば、アフリカで生まれた現生人類は住み慣れたサバンナを出て、ひたすら歩き続け、やがてユーラシア大陸の東端にぶつかり、それでも物足りずにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸にまで移動し、最後は地球のほとんどすべてにまで広がっていったのです。

現代の人間も、スピリットは基本的に変わりません。日ごろは定住生活をし、決まり切った場所と場所を往復するだけの日々を送っていても、長い旅を夢見て、胸を熱くする。遠い辺境の地、何もない最果ての茫漠とした場所へと行ってみたいと、ひたすら憧れる。そういう思いを抱いている人は多いのではないでしょうか。

21世紀になると交通がさらに発達し、多様な生き方や働き方ができるようになって、移動はますます自由になっています。前世紀までは「定住ときどき移動」だったのが、「移動ときどき定住」ぐらいに反転してきている。

私は学生時代から登山をしています。20代のころは冬山やロッククライミングにのめり込み、谷川岳や南アルプス、八ヶ岳の岩壁に毎週のように通いつめていました。しかしこのころの登山は私にとっては「移動」ではなく、「達成」でした。「登れ より高く」という言葉をスローガンにしていた山岳会がありましたが、ひたすら上を目指す。より高い山頂、より困難な岩壁を目標にする。途中経過はつらいけれども、それは乗り越えるための苦難であって、達成した暁には大変な喜びが待っている。

そんな気持ちで山を登っていたのです。

しかし移動の時代には、こうした「達成」の登山ではなく、「移動」を目的とした登山もありうるのではないでしょうか。ピークを目標とするのではなく、ただひたすら見果てぬ先へと移動していくことを目的とする登山。

それを「ロングトレイル」と言います。

ロングトレイルは米国が発祥ですが、日本でも近年登山好きのあいだで注目されるようになり、国内にもたくさんのトレイルのコースが設定されています。有名なところでは信越トレイル、八ヶ岳山麓スーパートレイル。後者は標高2800メートルの八ヶ岳の山頂は一切踏まず、おおむね標高1500メートルぐらいの山腹をひたすら横に移動して行き、八ヶ岳の広大な裾野を一周してしまうという長大な200キロメートルのコースです。

私もこのロングトレイルにはまっていて、この秋には「塩の道トレイル」を歩きました。新潟・糸魚川と長野・松本を結ぶ全長120キロメートル。かつて日本海から塩を運んだ千国(ちくに)街道に由来しています。この糸魚川と松本のあいだというのは、ちょうど北アルプスの全長に近い。つまり北アルプスを最南部の穂高岳から最北部の白馬岳北部まで縦走するのではなく、北アルプスに沿って山を横目に見ながら、平野部をひたすら歩いていく。そういう素敵なトレイルなのです。

11月初旬のよく晴れた日の朝、特急スーパーあずさに乗って松本駅に降り立ち、駅からいきなり歩きはじめます。登山の格好をして、何でもない普通の住宅街をひとり歩いているのはなんだかちょっと不思議な感覚。街を抜けてアルプス公園にたどり着くと、眼下に安曇野が広がり、前方には大きな北アルプスの山々。初冬の山稜は新雪をまとって、白く明るく輝いています。

塩の道トレイルの大半は、JR大糸線に並行しながらひたすら舗装道を歩いていくので、道の選択はかなり自由です。トレイルとして設定されていると言っても、独自の道が整備されているわけではなく、地元の観光協会が発行したガイドマップに赤線が引かれているだけなのです。だから地図を眺めて歩き良さそうなルートを自在に選び、北を目指します。

犀川のほとりでひと気のない場所を見つけ、遅めの昼食となりました。湯を沸かし、携帯食料のリゾットをつくり、ついでにスキットルのウイスキーを呷る。目の前の川ではカモがたくさん泳いでいるのが見えて、空はどこまでも晴れている。気持ち良すぎます。

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この時は3日間の日程が取れたので、大糸線白馬駅までの前半部を踏破しました。峠を越えて糸魚川まで出る山道がまだ残っていますが、今年は時間切れ。雪の消えた春以降に残るトレイルを歩こうと考えています。

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ロングトレイルには一応のゴールはありますが、個人的にはゴールを目指しているという気持ちはさほどありません。それよりも、今ひたすら歩き続けていることの喜びの方が大きい。あの峠の先、あの曲がり角の先、あの川を渡った先には、どんな景色が待ち受けているんだろう。どんな展望がひらけているんだろう。そういうワクワクとした瞬間をひたすら持続させて行きたい。いつまでも歩きたい。そういう気持ちで歩き続けていくのです。

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目的地が大事なのではない。目的地にいたるまでの過程こそが大事なのだ。目的地に行くためではなく、移動するという行為そのものが大切なのだ。そういう感覚が重視される時代になってきているのではないかと思います。

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