人と言う字は、人と人が支え合う格好をしているんですよー。
金八先生の顔がありありと目に浮かぶ言葉ですね。
こどもの頃から100ぺん聞いた言葉で、もう聞き飽きすぎて食傷気味。はいはい支え合ってもたれあって、ズブズブですよねーと意味もなく悪たれたくなる。だいたいさあ、人という字は人を横から見た形を模した象形文字なんだってよ。自立して立ってるのが人という字なの!とツッコミたくもなる。
あ、ごめんなさい深い意味はないです。
心が不安定になる5月に免じて許してください。ふふ。
昔は「3年B組金八先生」が苦手でした。なーんか説教臭くて、暑苦しくて、この先生が担任だったら保健室に入り浸っちゃったろうな、って。ところが、先日ふと見る機会があって驚きました。昔と今と、感じ方がまるで違うんですよね。きっとちゃんとした大人がつくった台本なんだろうな、人生の核心を突いていて悔しいほど感じ入ってしまった次第。
支えられたり支えたりというのはもちろんのこと、人から思わぬ影響を受けることってありますよね。最近、人と人との関係の中でこそ生み出された美味しいものが2つあるので、今日はそれをお話しようと思います。
いや、たいしたことじゃないです。ほんの与太話。連休明けですからそれくらいのゆるさがちょうどいいかなって。
ええっと。まずは、白状からですが。
わたしは、スイーツがさっぱりつくれません。
つくれませんし、つくりません。
なぜかというと面倒くさいからです。
ちょっと色気を出してお菓子作りの本をパラパラすることもありますが、3分くらいで降参します。だいたい材料を正確に計ることを求められるじゃないですか。アレがだめです。わたしの日々の料理は本当にいい加減で、塩ぱっぱ、お酒ちゃー、お醤油たららっ、とすべてが目分量。当然味の再現性はまったく厳密ではありません。でも一応食べられるものがつくれるし、「ママ、今日ちょっとしょっぱい」と文句を言われたら、材料を増やして薄めるか、頭を掻いて済ませるか、「じゃああなたがつくって」と開き直ります。それで済む。
でも、スイーツは計量がとても大事なんですよね!適当にやると膨らまなかったり、かたくなったり、固まらなかったり。どうしてもその厳密世界に足を踏み入れることができません。
そんな親に育てられたこどもなのに、我が家の末娘はスイーツづくりの腕をめきめきとあげています。最初は本を見ながら簡単なクッキーやパウンドケーキをおそるおそる焼いてみて、その後、シフォンケーキ、ショートケーキ、ラングドシャ、プリン、パンナコッタ、ムース、マカロン、などどんどんどんどん守備範囲を広げています。最近では毎週のように、友達を招いてお菓子をつくって食べて解散、というスイーツDIYな放課後を楽しんでいるようです。
残念ながらわたしは何の手助けもできません。頼られもしません。成果品を「わあ美味しい!すごーい」とありがたく頂戴するだけ。
どうして娘がスイーツをつくり始めたかというと、理由は2つあるようです。
1つは、親がおやつをつくらないから。つくるとしても「じゃがいもが収穫できたからポテトチップスをつくろうかね」など田舎暮らし寄りのものばかりで、オシャレじゃないし甘くない。ならば食べたいものは自分でつくろうと考えたそうです。
もう1つは、東京の家のまわりに最近、スイーツのお店が突然増えたことがきっかけです。タピオカ入りのジュースのお店なんて同時多発開店していて、どのお店も長蛇の列。娘にせがまれてたまーに並んで買うと、1杯のお値段がビジネスランチを食べられる程度。驚きます。みんな当たり前のように支払っていますが、こんなものを毎日せがまれたらたまらない。「いつも買うわけじゃないからね。ないからね!」と釘を刺します。ぐっさぐさに。
すると娘は、スーパーで乾燥タピオカを探しはじめました。「これで自分でつくる」と。つくってみれば数百円でタピオカジュースが100杯分くらいできる。しかもお好みで、春の水たまりのカエルの卵のようにどっさりタピオカを入れるのも自由。「ん~贅沢」と喜んでいました。
わたしは「タピオカジュースって錬金術だね!」と思いつつ、口には出しませんでした。へへ。
娘のつくるスイーツの素材はすごく贅沢です。
南房総で仲良くしている近藤牧場の牛乳を使ったり、地元のすぎな舎の卵を使ったり、近所のいちご農園の方から分けていただいたいちごを使ったり。当たり前のようにこうした確かな素材を手に入れているけれど、娘よ、この環境こそが贅沢なんだぞ。
つくっているのはあなたでも、それを支えているのはさ。
分かってるよね。
そんなわけで最近、我が家のスイーツは豊かです。娘は、スイーツのつくれない親のおかげで、自ら立ち上がり、つくる楽しさを得ました。
いやあ、娘はわたしに感謝すべきだな。
与えないという環境を与えられていることに。
わたしは娘の創作意欲を支え、娘は我が家のスイーツ環境を支えている。お互い嬉しい循環。
これはまさに、金八先生の言う人という字そのものだな。
さて。
2つ目の美味しいものは、これです。
醤油に非ず。
こちら、ポン酢です。
南房総-東京の二地域居住友達の成田さんから、「馬場ちゃん、自分でつくるポン酢は絶対美味いぞ!フグ料理のときに出てくるポン酢の味がつくれるぞ。市販品に後戻りできなくなるぞ」とそそのかされてつくりました。
内心、あー仕事増えるなあ、と思いながら。
スイーツでなくても面倒なものは面倒。これまでは買っていて不足のなかったものだしね。
つくれるものは何でもつくるDIYマンの成田さんは、わたしのつくった醤油(づくりだけは面倒ではない。もはや息するように醤油をつくっています)と物々交換で、自宅で獲れたダイダイを持ってきてくれました。
これが本当にいい香りでね。
爽やかなだけでなく、香りに芯があり、これがポン酢の中で主張したらどれだけ素敵なことになるかなあ、と想像せずにはいられない。ウッカリ放置してしなびたりしたらお天道様に申し訳ない、と思わせる力があります。ダイダイ、恐るべし。
いや、ダイダイだけだったらこのわたしがまともにポン酢製作に向き合っていたか分からないんですけどね。実は役者はそれだけじゃあなかった。
当方の主催している南房総DIYエコリノベワークショップの講師を毎年してくださっている建築家の竹内さんからいただいたこんな逸品が、たまたま手元にあったのです。
わたしは鰹節マニアでも何でもありませんが、この鰹節がちょっと驚くほど美味しいことはすぐに分かりました。香りがぐっと深く、ひとつまみ口に入れると力強い旨味がいっぱいに広がり、それが鼻へと抜けていきます。毎日こんな鰹節を食べられる竹内さんが、まっすぐ羨ましくなる。
いいなあ、もう。
また、成田さんの言葉が思い出されます。
「馬場ちゃん、ポン酢はね、実はダシが命なんだよ」
この鰹節を使い、あのダイダイを使い、うちの馬場醤油を使えば、手前で極上ポン酢がDIYできてしまうではないか?
うーん。
食べてみたい。
この欲に負け、ごくたまに発現する“面倒くさいけどやるかボタン”がぶちっと押され、重い腰を上げ、がんばってつくった次第です。
一番大変だったのは、ダイダイの果汁絞りでした。昔ながらの手絞り器で、ぐりぐりぐりぐりと。最初は「んーいい香り」と鼻孔を膨らませて楽しんでいましたが、20個も30個も絞っていると手が痛くなる。勝手にやっているくせに、焚きつけた成田さんにだんだん腹までたってくる。「絞るのがすごく大変でした!」と報告に見せかけた愚痴メッセージを送ると、「あれ?なんだ。自動絞り器がうちにあるのに」と、成田さん。
なんなのそれ。なんでそんなものを持ってるの。
早く言ってよ。
つくりたてのポン酢は、酸味と塩味がぶつかり合って、よく言えばフレッシュで、実際はちょっとトゲのある味でした。大丈夫かなと思っていたら、「ダシ元を入れて2-3週間ほど置いておき、その後瓶詰めして数ヶ月熟成させるとマジで味が変わるよ。人間関係と同じで、時間が経つとなんとなくまろやかになる」とのこと。もっともらしいことを言うもんだ!
その言葉をまともに信じ、我が家のポン酢は熟成中。
待ちきれなくてチビチビ使っているけどね。
・・・・・・
人は、人に影響されて、知らない世界に出会い、入り込み、人生がころがっていくんだなあと思います。まるで、選択肢の足されていくあみだくじのよう。
わたしはもう、手づくりポン酢を面倒だと思う世界にはいませんし、末娘はもう、いつもスイーツを買う世界にはいない。近藤牧場の牛乳の美味しさも知ってしまったし、素材を手がけた人の顔を浮かべてものをつくる楽しさも知ってしまった。それはとても贅沢で、後戻りはちょっとできそうにありません。
どれもとてもささやかなことですが、そんな変化が重なり合って、今の自分ができているんだと思っています。